2004年 6月 22日(火)

▽▼▲△▽▼限りなく不自由に近い自由▲△▽▼▲△▽▼▲△▽▼△

6月21日。起床。
目が覚めると、時計の針が11時半を過ぎたところだった。窓の外には昼の明るい太陽の光がまぶしく照っているではないか。気が付くと寝ていた場所は、いつもの自分の部屋の布団の中ではなくて、リビングルームの隣にある畳の上。
全ての事情は以下のようなことだ。

昨日の夜中に交換日記を書くために、リビングルームにあるパソコンに向き合って三時間。日記の更新を終えるなり、重い義務を果たした後のような解放感を感じた後、とてつもない疲れと共に気を失ったかのように隣の部屋の畳の上で眠りについてしまったのだ。

目が覚めた。

『体が痛い・・・一体、僕はなぜ故にこんな場所で寝ているのか。それ以前に今日出なければ大変なことになる1限の授業はもう過ぎ去ってしまった・・・ああこんな時、放送大学に通っていたならきっと録画の映像が残っていたはずなのに・・・』

そんなつまらないことを考えたのは、どうしようもない状況へ多少のユーモアを持って抵抗する自分の考え方の癖かもしれない。現実から目をそらし、あてつけの都合のよい解釈や自分への言い訳と言った類は心の気休めにはちょうどいい。人間の心はうまくできているものだ。それで事態が解決するわけではないが、気の持ちようとしては随分と楽になる。
「病は気から」というではないか。ここで心の逃げ道を用意している自分を憂いてはいけない。仕方がないという割り切りこそ、相対的幸せ気分への近道なのだ。

理屈をこねている自分にはそろそろ飽きてきたので、大学へ向かい、出路君と会った。彼はゼミ選びの真っ最中であったようで、その他の予定もたくさん重なっているらしく、大変そうであった。

大学二年ともなれば、いろいろと所属環境が増えてくる。
環境を絞って濃く活動するもよし、環境を制限せず、一見中途半端だが得るものは確実に得ていくのもよし、何もしないのもそれはそれでよし、全て自由、そう、自由。

でも自由こそ、もっとも恐ろしい。お金と同じ。
「自由とお金は、無いときは欲しくなる。
あるに越したことはないが、ありすぎると時に人を狂わせる。
自由は不自由といつも表裏一体、生かせなければ破滅に向かう。」

自由は限りなく不自由に近い。
『自由≧不自由』公式化するとこんな感じであろうか。
活かせれば無限の可能性、活かせなければ不自由と同義。

ここまで言い切ってしまうと多少の語弊はあるのかも知れないが、シビアに考えてみた。
時にはシビアに自分に言い聞かせようという思いと共に。

その後、一年の時の英クラの友人と久しぶりにセントナ(セントポールの隣という洒落た名前の飲食店で立教生の憩いの場)で食事をした。そこで、バナナジュースを飲んだ。
「うまい、うますぎる。こんなおいしい飲み物を見過ごしながら一年間を過ごしてしまった。俺はなんて愚かだったんだ。」
後悔はいつも先には立たない。それは仕方がないことなのだが、バナナジュースごときでこの悔しさ。明日からはもっと人生の選択に責任を持とう。人生に後悔しないように・・・。

こんなことを考えていると早、放課後の時間。今日は考える人になった一日だった。

一日の密度は毎日変わる。毎日が濃い毎日だったらどんなに楽しいだろう。しかし、人は、毎日をつれづれに過ごしてしまいがちである。時間は無限のものでなくて限られたものなのに。バナナジュース一杯分の幸せならたくさん転がっているはずなのに、それさえも通り過ぎている気がしてならない、そんな一日であった。

明日はもっといい日にしよう。それでは、また明日。
お読み頂きありがとうございました。
                       2004.6.21 記  浅見周司




↑鉛筆マークを押すと日記にレスを付ける事ができます。