2004年 11月 22日(月)

「暇はないけど、寂しいので」パート2

 パート2です。今回は、いまだに本学でも根強い、「一部宗教の勧誘について」です。ゼミのオリエンテーションでは、ずっと配ってきたものですが、ここ数年、講義初回のオリエンテーションの時に、注意を促す意味で一般学生にも配っています。
 最近も、昼休みになると正門付近で拡声器を使って、わけの分からない説教をたれているのがいます。「あの」宗教グループも相変わらず蔓延っています。だから、というわけではまったくないのですが、来年から本学経済学部では、教養科目として「宗教学入門」を開設します(非常勤講師による)。

【一部宗教の勧誘について】

 最近、本学の学生に対しても様々な新興宗教の勧誘が行なわれ、実際そういった宗教にのめり込む学生もいるやに聞いている。そのこと自体、一大学教員がとやかく言う類のことではない。学生はもはや大人である。信教の自由は日本国憲法においても保証されている。誰がどんな宗教を信仰しようが、何人もその信仰心を侵すことはできない。
 ただ一部宗教において、その勧誘の仕方、入信(入会?)後において求められる活動があまりに「市民社会」の常識からかけ離れていることがあるという。一部の宗教では、正しいことを広めるためには、市民社会のルールに反する手段も認められると考えているようであるが、ここで問題にしたいのは、「目的が手段を正当化する」という独善的思考方法、行動パターンである。一部の宗教においては、市民社会のルールは凡人世界のきまりであって、正しい教えの前には無益であるという観念が蔓延しているようである。
 だが、思い起すべきは、市民社会のルールとは、これまで人類が長い歴史の中で、様々な犠牲を伴いながらも営々と築き上げてきたものなのだ、ということである。市民社会のルール確立の中では幾多の宗教関係者も苦闘してきたし、今現在も世界のあらゆる所で苦闘している。現実は決してバラ色ではないが、市民社会のルールは軽々しく無視できるような生半可なものではなく、その背景には、宗教関係者を含む幾万幾千という人々の血と汗と魂の叫びがあることを忘れてはならない。
 繰り返すが、ここで問題にしているのは、信仰の内容、信仰の対象ではない(無論、宗教の本当の教義、歴史に照らし合わせて、それをもとに特定の宗教集団に対して批判をすることもできるし、実際にそうしている人もいる)。誰が何を信じようが勝手である。問題は、特定の宗教グループが「何を信じるか」ではなく、実際の生活の中で、「何をするのか」、あるいはメンバーに「何をさせているのか」である。「すること」、「させていること」が市民社会のルールと大きく乖離しているかどうかが問題なのであり、そうした生活をメンバーに強いる際の「方法」が問題なのである。
 オウム真理教が世間をここまで騒がせているにもかかわらず(騒がせているがゆえに、かもしれないが)、なお実態のはっきりしない宗教に近づいてしまうのは、本人の責任でもあり、また上述したように、信教の自由は誰に対しても保証されているのであるから、一大学教員が事細かに「ご指導」することなどはしない。ただ純真無垢な学生が、もし本当に怪しげなグループに関わるようになってしまう(しかも、本人は決して強制的にそうさせられたのではなく、あくまで自発的にそうしていると考え、「宗教」に関与しているという意識すらない場合もある)とすれば、放置するには忍びない面もある。さらには、本人はともかく、まわりの学生まで迷惑する可能性もあるので、多少なりとも社会科学を研究してきた一大学教員として、ここで少しばかりのコメントだけしておきたい。
 何度も言うように、信仰の内容・対象は自由である。それに関してのコメントはない。以下述べるのは、まともなグループか、そうでないかを見分ける若干の「基準」である。勧誘され全身全霊をかけてのめり込む前に、そして、知り合いを勧誘する前に、心得ておくべき「基準」である。自分(家族・友人など)がアプローチを受けている、あるいは自分(家族・友人など)が関わっている、宗教グループを見極めるための「指標」である。以下の「基準」、「指標」に照らし合わせてみて、おかしいと思ったら、そのグループはおそらく、ろくな集団ではなく、なるべくなら近寄らない方がよかろう。
 当たり前のことを何度も繰り返すが、グループを見分ける基準は、信仰の内容(「何を信じるか」)ではなく、「何をするのか」、「何をさせているのか」ということに基づくものである。以下の「基準」、「指標」に照らした後、どういう判断を下し、どういう行動に出るかは、全く個人の自由である。ここでは、単に老婆心から、市民社会のルールに照らした「基準」、「指標」を提示するにとどめる。

[市民社会のルールに照らした基準・指標]
  �機.哀襦璽廚了愼蛎寮�など
*グループの指導者は誰か。その経歴はどうか。そのグループを始める前にどんな教育や訓練を受け、どんな職業についていたか。犯罪歴はないか。脱税などは行なわれていないか。こうしたことを十分に承知したうえで入信したか。こうしたことはメンバーに十分周知されているか。またグループと関係のある他の組織に関しての情報は与えられているか。
  �供ヾ�誘の際、「目的は手段を正当化する」と教えられることはないか。
*「正しい教え」、「永遠の真理」を「無知」な人に教えてあげること(目的)は、その人のためでもあるから、何が何でも勧誘するということ(手段を選ばず)になっていないか。「夜討ち朝駆け」になってはいないか。知り合いの住所、電話番号をグループに教えるように言われていないか。とにかく呼び出し、話を聞かせることが必要だからということで用件を明示せず、あるいは嘘の用件で友人を呼びだしたことはないか。相手からの質問に窮し話に詰まった場合、自分は未熟であるからグループの先輩、他のメンバーと話をしてくれと答える、というようには教えられていないか。
  �掘‘�信後の活動について
*入ったら何をすることになるのか、事前に詳しく聞けたか。「正しい教え」を「無知」な人に広めることが、自分へのご利益を高めることにもなる(あるいは広めないと自分へのご利益が減る)などと教えられ、生活の大部分を勧誘活動に費やしていることはないか。信者獲得などのノルマはないか。お布施、物財の購入など経済的負担が日常生活に影響するようなことはないか。どう考えても信仰とは無縁の活動(選挙活動、資金集め等)に従事させられてはいないか。グループに否定的な見解には耳を傾けないように言われていないか、あるいはそうした見解に基づく行動を妨害するよう教えられては いないか。
  �検.哀襦璽廚鯣瓦韻織瓮鵐弌爾箸寮椰┐砲弔い�
*元メンバーについての情報はあるか。なぜそのグループを抜けたのかを話し合えたことはあるか。勧誘を受けた際、勧誘者に元メンバーのことを具体的に聞けたか。
  �后,笋瓩觴�由について
*グループをやめる自由はあるか。やめると地獄に落ちるだとか、不幸になるとか、やめること自体を恐がるようにさせられてはいないか。

 以上が大まかな基準である(無論、一般には考えられないような因果関係でもって、現実の諸事象を説明する非科学的・オカルト的性格も基準になり得るが、場合によってはそのことそのものが「教義内容」である場合があるので、ここでは「基準」からは一応外した)。およそまともな宗教は、市民社会のルールに反してまで人を勧誘したりはしない。またメンバーに心理的脅しをかけてやめさせないようなことはしない。規模の大小、歴史を問わずそうである。「来るものは拒まず、去るものは追わず」が鉄則なのである。勧誘を強く受けている人、すでに勧誘する側に回ってしまった人は、上述の基準を虚心坦懐に検討してみるとよい。その後どう判断し、行動するかは個々人の自由であるが、まずは興味本位で近づかないことが基本である。怪しげな宗教は、(覚醒剤やLSDまで使うのは極端な例としても)気分を高揚させるような、神秘体験をした気になるような、様々な「手法」、「儀式」を持ち合わせているからである。              




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