2004年 5月 10日(月)

『梁山泊』届きましたか

 新年度3年のゼミ初回の時、作業を行い、翌週発送した『梁山泊』ですが、皆さんのお手元に届きましたでしょうか。「届きました」と近況とともにメールをくれる人、早速ゼミ会費を納入してくれる人もいますが、毎年何の返事もなしという人もいます。まったく音沙汰なしでは少し寂しい気がしますね。
 ゼミ1期生が卒業するのにあわせ、1994年に第1号を創刊した『梁山泊』も今回で第11号。そのときどきの3年生文集委員が中心になって、編集・印刷・発送の作業を行なってくれました。文集として、ゼミ会報として、これまで少しずつですが内容も充実してきたと思います。「手作り」感覚を醸し出すため、いまだに作りはアナログだし、宛名書きなどという作業も残しています。担当分だけでも先輩たちの名前を実際に自分の手で書く、という作業を通じ、在校生に先輩とつながっている感覚を持ってほしいという思いからです。ゼミ総会で会った時、「あっ、この人の名前、書いたことがある」と分かれば、ひょっとするとそこから会話が始まるかもしれません。文集を送られる側も、手書きの意味をちょっとだけ考えていただけるとありがたいです。
 いずれにせよ、この『梁山泊』、ゼミ卒業生の多くの人にとって、定期的に大学時代を思い出させる懐かしいものであるのと同時に、仲間の近況を知るものでもあるでしょう。投稿している人もいますし、何より、巻末の住所録で転勤・転職・結婚等の情報が得られるからです。文集を作る3年生には、よく言います。「これは文集だから、文集の原稿を集めることはもちろん大事。でも、もう一つ重要なのは、最新の正確な住所録を作ること」だと。まだまだ落ちているところ、間違っているところもあるかもしれませんが、作る側は、それぞれが忙しい中、原稿集め、住所録づくりに励んでくれています。今年もそうでした。そうした努力にもかかわらず、2期生K君、3期生Y君の連絡先が分かりません。もしご存じの方がいれば、連絡していただければ幸いです。あと何人か、番地等の細かい部分で間違いや不明があり、届けられていない人が2名ほどいます。
 このあたりのことは、何とかなるのでしょうが、問題は、この住所録をこちらの想定外の「使い方」をする人がいて、ゼミ卒業生に迷惑がかかっていることです。マナーのなっていない現役生から、いきなり就職についての電話を受けたと聞いたこともあります。これなどはまだしも注意できますが、絶対にやめていただきたいのは、特定の宗教活動、政治活動に利用することです。うえに述べたような『梁山泊』の性格上、住所録を外すわけにはいきません。ゼミ会報として整えている卒業生名簿を布教活動などに利用されては、迷惑ですし、これはゼミに対する裏切り行為です。越えてはならない一線です。
 越えてはならない一線を越えた事例を耳にします。『梁山泊』をこのように使う人には、今後、『梁山泊』の送付を停止します。自分が何を信じようが、勝手ですが、他人を巻き込むのはやめにしていただきたい。
 この10年ほど、新ゼミ生のオリエンテーションにおいて、そして、ここ数年は、新入生の受講が多い世界経済論のガイダンスにおいて、以下の文書を配布しています。ゼミ生なら目にした人も多いでしょう。「研究室だより」にまで載せる気はなかったのですが、この手の問題に対する私のスタンスをあらためてはっきりさせるため、あえて掲載しておきます。
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「一部宗教の勧誘について」
 最近、本学の学生に対しても様々な新興宗教の勧誘が行なわれ、実際そういった宗教にのめり込む学生もいるやに聞いている。そのこと自体、一大学教員がとやかく言う類のことではない。学生はもはや大人である。信教の自由は日本国憲法においても保証されている。誰がどんな宗教を信仰しようが、何人もその信仰心を侵すことはできない。
 ただ一部宗教において、その勧誘の仕方、入信(入会?)後において求められる活動があまりに「市民社会」の常識からかけ離れていることがあるという。一部の宗教では、正しいことを広めるためには、市民社会のルールに反する手段も認められると考えているようであるが、ここで問題にしたいのは、「目的が手段を正当化する」という独善的思考方法、行動パターンである。一部の宗教においては、市民社会のルールは凡人世界のきまりであって、正しい教えの前には無益であるという観念が蔓延しているようである。
 だが、思い起すべきは、市民社会のルールとは、これまで人類が長い歴史の中で、様々な犠牲を伴いながらも営々と築き上げてきたものなのだ、ということである。市民社会のルール確立の中では幾多の宗教関係者も苦闘してきたし、今現在も世界のあらゆる所で苦闘している。現実は決してバラ色ではないが、市民社会のルールは軽々しく無視できるような生半可なものではなく、その背景には、宗教関係者を含む幾万幾千という人々の血と汗と魂の叫びがあることを忘れてはならない。
 繰り返すが、ここで問題にしているのは、信仰の内容、信仰の対象ではない(無論、宗教の本当の教義、歴史に照らし合わせて、それをもとに特定の宗教集団に対して批判をすることもできるし、実際にそうしている人もいる)。誰が何を信じようが勝手である。問題は、特定の宗教グループが「何を信じるか」ではなく、実際の生活の中で、「何をするのか」、あるいはメンバーに「何をさせているのか」である。「すること」、「させていること」が市民社会のルールと大きく乖離しているかどうかが問題なのであり、そうした生活をメンバーに強いる際の「方法」が問題なのである。
 オウム真理教が世間をここまで騒がせているにもかかわらず(騒がせているがゆえに、かもしれないが)、なお実態のはっきりしない宗教に近づいてしまうのは、本人の責任でもあり、また上述したように、信教の自由は誰に対しても保証されているのであるから、一大学教員が事細かに「ご指導」することなどはしない。ただ純真無垢な学生が、もし本当に怪しげなグループに関わるようになってしまう(しかも、本人は決して強制的にそうさせられたのではなく、あくまで自発的にそうしていると考え、「宗教」に関与しているという意識すらない場合もある)とすれば、放置するには忍びない面もある。さらには、本人はともかく、まわりの学生まで迷惑する可能性もあるので、多少なりとも社会科学を研究してきた一大学教員として、ここで少しばかりのコメントだけしておきたい。
 何度も言うように、信仰の内容・対象は自由である。それに関してのコメントはない。以下述べるのは、まともなグループか、そうでないかを見分ける若干の「基準」である。勧誘され全身全霊をかけてのめり込む前に、そして、知り合いを勧誘する前に、心得ておくべき「基準」である。自分(家族・友人など)がアプローチを受けている、あるいは自分(家族・友人など)が関わっている、宗教グループを見極めるための「指標」である。以下の「基準」、「指標」に照らし合わせてみて、おかしいと思ったら、そのグループはおそらく、ろくな集団ではなく、なるべくなら近寄らない方がよかろう。
 当たり前のことを何度も繰り返すが、グループを見分ける基準は、信仰の内容(「何を信じるか」)ではなく、「何をするのか」、「何をさせているのか」ということに基づくものである。以下の「基準」、「指標」に照らした後、どういう判断を下し、どういう行動に出るかは、全く個人の自由である。ここでは、単に老婆心から、市民社会のルールに照らした「基準」、「指標」を提示するにとどめる。

[市民社会のルールに照らした基準・指標]
�機.哀襦璽廚了愼蛎寮�など
 グループの指導者は誰か。その経歴はどうか。そのグループを始める前にどんな教育や訓練を受け、どんな職業についていたか。犯罪歴はないか。脱税などは行なわれていないか。こうしたことを十分に承知したうえで入信したか。こうしたことはメンバーに十分周知されているか。またグループと関係のある他の組織に関しての情報は与えられているか。
�供ヾ�誘の際、「目的は手段を正当化する」と教えられることはないか
 「正しい教え」、「永遠の真理」を「無知」な人に教えてあげること(目的)は、その人のためでもあるから、何が何でも勧誘するということ(手段を選ばず)になっていないか。「夜討ち朝駆け」になってはいないか。知り合いの住所、電話番号をグループに教えるように言われていないか。とにかく呼び出し、話を聞かせることが必要だからということで用件を明示せず、あるいは嘘の用件で友人を呼びだしたことはないか。相手からの質問に窮し話に詰まった場合、自分は未熟であるからグループの先輩、他のメンバーと話をしてくれと答える、というようには教えられていないか。
�掘‘�信後の活動について
 入ったら何をすることになるのか、事前に詳しく聞けたか。「正しい教え」を「無知」な人に広めることが、自分へのご利益を高めることにもなる(あるいは広めないと自分へのご利益が減る)などと教えられ、生活の大部分を勧誘活動に費やしていることはないか。信者獲得などのノルマはないか。お布施、物財の購入など経済的負担が日常生活に影響するようなことはないか。どう考えても信仰とは無縁の活動(選挙活動、資金集め等)に従事させられてはいないか。グループに否定的な見解には耳を傾けないように言われていないか、あるいはそうした見解に基づく行動を妨害するよう教えられてはいないか。
�検.哀襦璽廚鯣瓦韻織瓮鵐弌爾箸寮椰┐砲弔い�
 元メンバーについての情報はあるか。なぜそのグループを抜けたのかを話し合えたことはあるか。勧誘を受けた際、勧誘者に元メンバーのことを具体的に聞けたか。
�后,笋瓩觴�由について
 グループをやめる自由はあるか。やめると地獄に落ちるだとか、不幸になるとか、やめること自体を恐がるようにさせられてはいないか。

 以上が大まかな基準である(無論、一般には考えられないような因果関係でもって、現実の諸事象を説明する非科学的・オカルト的性格も基準になり得るが、場合によってはそのことそのものが「教義内容」である場合があるので、ここでは「基準」からは一応外した)。およそまともな宗教は、市民社会のルールに反してまで人を勧誘したりはしない。またメンバーに心理的脅しをかけてやめさせないようなことはしない。規模の大小、歴史を問わずそうである。「来るものは拒まず、去るものは追わず」が鉄則なのである。勧誘を強く受けている人、すでに勧誘する側に回ってしまった人は、上述の基準を虚心坦懐に検討してみるとよい。その後どう判断し、行動するかは個々人の自由であるが、まずは興味本位で近づかないことが基本である。怪しげな宗教は、(覚醒剤やLSDまで使うのは極端な例としても)気分を高揚させるような、神秘体験をした気になるような、様々な「手法」、「儀式」を持ち合わせているからである。




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