| 2004年 5月 19日(水) |
S先生ご夫妻著作集に寄せて
先日、S先生ご夫妻の著作集全10巻・別巻1冊の既刊分5冊(東京の礼文出版が出しています)をいただきました。S先生ご夫妻と言えば、ともに著名な研究者であるとともに高崎経済大学とは縁浅からぬ方です。
ご主人のM先生は15年ほど前にお亡くなりになりましたが、日本の農村社会学、都市社会学の大御所的存在でした。「真理は常に具体的現実の中にある」ということで綿密な調査を続けられ、安中市では東邦亜鉛の鉱害問題調査も行ない、裁判にも関わりました。M先生は東京のお生まれのようですが、お墓は安中にあります。奥さんのM子先生も山田盛太郎の直弟子として日本資本主義の分析を続けられるとともに、M先生の研究を支えてこられました。
M子先生に初めてお会いしたのは、本学産業研究所のプロジェクト研究(成果は『開発の断面』として95年に公刊)において。先生といろいろなお話をし、お二人が高崎市立短期大学で教鞭を執っておられたことを知りました。その後は何年かに一度、経済理論学会等でお会いするだけですが、そのたびごとにいろいろな刺激を受けてきました。霞ヶ関あたりで仕事をする機会などあるとは思いませんでしたが、M子先生の誘いでプロジェクト研究に携わったこともあります。
M子先生は、御歳、77歳。大学は定年退職されましたが、まだまだ現役です。講座派の流れをしっかりと受け継ぎながらも、教条主義には懐疑的であり、ご主人同様、常に具体的現実の中に答えを探ろうとしておられます。イタリアなど先進国の都市調査だけではなく、ラオス、モンゴルなどアジアでも精力的な調査を最近でも行なっておられます。「もう遺書は書いてあるから」と笑いながら。こうして、お会いするたびに、私のような腰の重い「研究」者にプレッシャーをかけてくれます。
お二人が教鞭を執られた高崎市立短大は1952年に開設されましたが、5年後には廃止。1957年に高崎経済大学が「新設」されました。「首都大学東京」と同じような経緯を辿ったということです。短大廃止にはいろいろな理由があったと思いますが、教授会と高崎市との対立が大きな原因の一つとしてあったと聞いています。短大には講座派の俊英が集まっていたようですが、若き研究者と地方の自治体では、大学、研究、教育という基本的根本的なことがらについて、考え方の「ズレ」があったのでしょう。M先生夫妻をはじめ、ほとんどの教官が短大廃止とともに大学を追われました。大学「新設」が「左派」の一掃を狙ったものと揶揄されるのには、こうした事情が関係しています。大学を追われた教官らは、日本学術会議「学問・思想の自由委員会」に訴え出ました。
「マルクス・レーニン主義を徹底的に批判し、ケインズをも批判する新歴史主義の立場」をとる新学長の下、「世界の文化は上級の格付けに在るものほど、普遍性とともに特殊性ある国民文化の相互の主張、批判、総合によって進歩する。戦後におけるヒューマニズムと個人の直接の結びつきは空想であり、特に実践的価値を持ち得ない」とし、「東洋文化唯一の護持者」である日本は「有色人種の地位向上のために努力」すべきと謳う「建学の精神」を掲げ、高崎経済大学は「新設」されました。時代錯誤の理念を掲げスタートした大学において、その後、「不正入学問題」、「私学化問題」、「聴講生の大量本科編入問題」が続発し、泥沼化していくのは、映画「圧殺の森」に描かれているとおりです。
S先生ご夫妻の著作集を手にし、本学の来し方をほんの少し振り返ってみました。お二人の膨大な研究は、社会科学のあり方、地域研究の眼目を体現していると思います。中央官庁や自治体との「近さ」が研究の質、意義を決めるのではありません。
S先生ご夫妻の著作集。本学附属図書館に配架を要請しました。本学にこそ、相応しい著作集です。
↑鉛筆マークを押すと日記にレスを付ける事ができます。