| 2005年 2月 10日(木) |
『イントロ』Ver.3
高崎経済大学経済学会がここ数年毎年出している、新入生向けパンフレット『イントロ〜学びへのいざない』ですが、この4月に第3号を出します。ちょっと早いですが、本日の研究室だよりは、それを載っけておきます。
「ユニヴァーシティ・オブ・エコノミクス」の意味 矢野修一
1.はじめに
「高崎経済大学」の英語表記は「Takasaki City University of Economics」です。英語的に通用するか、英語圏の人にその中身がすぐに分かる名前か、というと微妙な感じもします。何せ「経済学のユニヴァーシティ」ですからね。でも「経済学のユニヴァーシティ」というのは、本学において学ぶうえで考えておいたほうがよいテーマです。いや、大げさな話をすれば、経済学の行く末を展望するにも大事なことかもしれません。
2.教科書花盛り
経済学は、文系学部で学ぶ学問分野としては比較的体系立っていると言われます。最近の本屋には、正統的に確立された経済学の内容を分かりやすく伝えようとする教科書が溢れ、便利なことに初級・中級・上級のテキスト(およびその解説本!)が用意されています。でもこれには功罪両面があるように思います。「功」のほうは日々の講義・ゼミで実感できるでしょうから、ここでは、あえて「罪」のほうに目を向けてみましょう。
たとえば、教科書を1ページめからきちんと勉強する真面目な学生諸君。公務員等、「各種試験合格のために」が強いインセンティブとなり、大学入試の延長線上で教科書の世界に没入します。でも練習問題を解くこと、あるいはツールを駆使することに終始し、現実の問題に、今現場で起こっていることに、鈍感になってしまいかねません。そして、数式やグラフが苦手な学生諸君。「これが経済学です」「経済を知るための第一歩です」と提示された教科書がその苦手なもので溢れかえっていれば、それだけで経済学が嫌いになり、ひいては経済そのものへの関心も失いかねません。
高校の社会科で日本史、世界史、地理、政治経済、倫理を学んできた人が漠然と抱く「経済」のイメージと、テキストの世界とは(それぞれ工夫が凝らされているとはいえ)やはりかけ離れています。教師が熱心に教科書を教えようとすればするほど、具体的現実と学生との距離が結果的に拡がっていく危惧すらあります。
3.ユニヴァーシティ・オブ・エコノミクス
ノーベル経済学賞をとったW.A.ルイスは20年ほど前、アメリカの大学で経済学部のカリキュラムから経済史がなくなっていくことを嘆きました。カリキュラムを経済学的に「純化」しようとする動きが進むなか、具体的現実、歴史的洞察抜きの経済学などありえないと訴えたのです。
高崎経済大学経済学部の場合、幸いなことに「功」が徐々に拡大する一方、今のところ、ここで述べたような「罪」の部分はないと言っていいと思います。開設されているゼミが一つのバロメーターになるでしょう。経済史・経済学史・思想史関係のゼミは健在です。マルクス経済学の原論も用意されています。経済学の教科書では抽象化されすぎの感がある企業そのものを扱う経営・会計関係のゼミも豊富です。数は少ないながら、法律関係・倫理学・教育学・言語学のゼミもあります。
歴史的経緯から、ごった煮的部分の残る当学部カリキュラムは、もう少し整理する必要があるように思われます。しかしながら、経済というものに触れる多様な機会、多様なアプローチが用意されていることは、けっしてマイナス面ばかりではないでしょう。「経済学のユニヴァーシティ」とは壮大すぎるネーミングかもしれません。でも、たった一つの合理性、単純な人間観を熱心に説き、経済の多様なあり方、多様な生き方を体系的に除去するよりは、それらを許容し育んでいけるような、多様な経済学を目指そうという意気込みを表わしている、とは言えないでしょうか。大学として正統的体系を教えつつも、その体系をいろいろな意味で相対化するような科目を用意しておくことは、単に「バランス」の問題ではなく、経済学という学問の発展にも必要ではないかと思います。
数理経済学者フランク・ハーンは、公理系経済学の限界を説き、「定理と証明に喜びを感ずる」よりは、歴史学・社会学・生物学の成果に目を向けるべきだと述べたことがあります。とすれば、「経済学のユニヴァーシティ」とは、経済学を教える大学のあるべき姿といえるのかもしれません。経済学のユニヴァーシティ。夢のある、希望に満ちたネーミングのもと、ともに学びましょう。「経世済民の学」を。
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