2004年 3月 1日(月)

学歴些少

●先頃、学歴詐称がニュースに取り上げられました。それが本人の意図的なものか、単なる未確認のための失敗であるかどうかはともかくとして、私たちはどうも学歴を気にする傾向にあることを否めません。その人がその学校でどれだけの人格形成をしてきたのか、また社会人になるとどこの学校を出たかどうかなどはほとんど関係がないということを知っていながらも、一方ではそれを気にするのです。それは、人はある種の権威に弱いという表れかもしれません。
●昨日、今年卒業する聖書学院の学生さんに礼拝メッセージをしていただいた話を書きましたが、話された内容で次のことが印象に残りました。その学生さんは、大学の英文科を卒業し、一般の会社で仕事をした後、聖書学院に入学してきたピアノ演奏も上手な女性です。彼女は、キリストの働きに仕えるために、自分の持てる力と体験にもっと磨きをかけ、神に用いていただきたいと願って入学したといいます。それはごく当然の考えで、学校という所は一般的に考えて、自分に更に多くの知識と力を身につける所だからです。しかし彼女が、1年目、2年目と過ごして、3年目に入ってから、聖書学校とはそのような学校とは違うと気がついたといいます。そして卒業間近な今、自分は神の力によらなければ何も出来ないと思うようになったのです。今までは、それが自分の財産のように考えてきた英語の語学力もピアノの演奏力も文章の表現力も全部神にお返しして、もし導かれるならばそれらが役に立たないかもしれない外国に宣教師として行くようになるかもしれないという心境になっているとのことなのです。
●私は言いました。「それこそ、聖書学院を卒業出来る証です」と。どうやら一般の学校の学歴は、その人に箔をつけますが、聖書学校は、その人が自慢できるものを取り除く所らしいのです。神の働きは、神が人を用いてなされるものですから、神ご自身によって新しく造り変えられた人を用いたいのです。キリストの12人の弟子たちは、キリストが十字架に架けられた時に、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れて、ほとんどの者たちは隠れていました。しかしキリストが復活された後、彼らに聖霊が注がれると彼らは全く新しい人になりました。恐れていた人が、大胆な人に変えられたのです。自殺をしたユダと迫害に会いながらも長寿を全うしたヨハネ以外の10人の弟子たちは、それぞれの働きをし、皆殉教しました。勿論、聖書学校を卒業した人は皆殉教するわけではなく、そこで聖書の学びの時を持てることは素晴らしいことです。しかしそこは箔を求めて行く場所ではありません。神の働きにとっては、学歴は些少なのです。