2004年 4月 19日(月)

子どもだって悩みます

●先週の火曜日の日記に書いた小学生の男の子が、昨日の日曜日、教会学校に来ました。「おっ、H君来たね」と言うと、「名前を覚えていてくれたね」と嬉しそうに言いました。教会学校が終ってから大人の礼拝中、外に遊びに出かけてから、再び他の5人ほどの友達と、大人の人たちと一緒の昼食をするために帰ってきました。そしてみんなでわいわい話しながら食事をしました。食事が終わっても帰りたがらず、今度は「神様のお話をしてよ」と言ってきました。
●よく宗教や信仰というものは、大人になって他のものと比較判断が出来る様になってから持つべきもので、子どものうちは一つのものだけを教えるべきではないと言う人がいます。この考えはもっともらしく思えるのですが、その背景には、子ども時代は親の守りの中にあるので、子どもには真剣に考えるほどの悩みというものはなく、悩みというものは、問題を自分で解決しなければならない大人になった時にあるものだとの考えがあるようです。
●しかし現実に、信仰を持った人の体験談では、子どもの時に持った死の恐怖を解決したいと常に思っていたと言いますし、子どもであっても親にも相談できない悩みは持っているのです。子どもは、小さいから悩みも小さいのではなく、子どもであっても、死を選ぶしか解決方法がないと考えるほど、大きな悩みを持つことがあります。しかも親に相談出来ないとしたら、自分で解決の道を探すしかありません。その問題を信仰によって自分で解決できたら、素晴らしいのではないでしょうか。
●これを書きながら、私も小学生の頃のある出来事を思い出しました。それは小学4年生頃でした。ある時、自分の家から遠く離れて、親友と二人でコマ回しをして遊んでいました。すると有名な上学年のジャイアン風ガキ大将Nが子分を連れて、仲間に入れてくれと言ってきました。断ると殴られそうで怖かったので、二人ともしぶしぶ入れることにしました。するとNは、自分でルールを作り出し、コマを相手にぶつけて相手のコマを弱らせて、しかも最後まで回っていなければ、途中でやめさせないし、もし途中で帰るならコマを割ると言いました。コマぶつけはいいのですが、ところがNは、私が文句を言えないのを知って、私が回すとコマを当てないで、自分の足で踏みつけて止めてしまうのです。それは不正なのですが、私はガキ大将が怖くて、黙って踏まれるままにしていました。それが何度も続きましたが、私は、恐ろしくて文句が言えません。涙が出そうになりながら、その時「イエス様助けて下さい」と心の中で祈りました。すると今までNは、毎回私のコマを踏んで止めていたのですが、その時は踏みつけるのを忘れたのか、私のコマを無視すると友達のコマに自分のコマを当てました。私は、チャンスとばかり、コマが倒れないように紐でたたきました。ふと気がつくとなんと最後まで回っていたのは、私のコマだけでした。それで私はこの機会を逃してはならないと思い、「僕、もうやめる」と言いました。Nは、なにか言いたげに私をにらみつけましたが、それが最初のルールでしたから、彼は何も言えずに私たちを解放しました。今でもその場面を鮮やかな夕日と一緒に思い出します。
●その出来事で、私は自分の祈りをイエス様が確かに聞いて下さったことを実感しました。私がそのような状況で祈ったのは、母がいつも私の相談事に対して「まず祈ろう」と言って一緒に祈ってくれていたからです。ある人は、子どもが、いじめに会ったり、殴られたりするのは強い人間になるための一過程のように考えますが、その子にとっては、自殺をした方が楽だと考える程逃れたいことなのです。しかもそばに助け手がいなければ、子どもであっても、自分自身で問題に立ち向かって解決しなければなりません。そんな時、神様が守ってくれるという「信仰」を持つことは、どれほど力になることでしょうか。