| 2004年 4月 4日(日) |
十字架で示された愛
【礼拝メッセージの要約】
●今日から「受難週」に入ります。イエス様のエルサレム入城、最後の晩餐、裁き、十字架、埋葬、そして復活と続くこの1週間の出来事には、キリスト教の教えの重要な要素が含まれています。その中でもイエス様の「十字架上の死」と「復活」は、最も重要です。なぜならこの2つは、私たち人類に神様が与えた「救い」の道だからです。
●しかしこの素晴らしい神様の方法は、必ずしも人々に受け入れられるわけではありません。というのは、人々は「救い」の必要に気が付いていないからです。現在特に解決して欲しいと願う問題を持っていなかったり、自分は正しい生き方をしていると思っている人にとっては、「救い」を必要とする意味が理解できません。ですからまず全ての人が現在置かれている状態について理解してもらわなければなりません。
●聖書は次のように言っています。「・・・皆、罪の下にあるのです。・・・『正しい者はいない。一人もいない。・・・善を行う者はいない。ただの一人もいない』(ローマ3:9ー11新共同訳 )」。この「罪」とは、何でしょうか。これは必ずしも犯罪を犯すことだけを意味するのではなく、人間が自分で正しいと考える基準に従って生きることです。つまり神様に聞き従うよりも、自分自身を主人とする生き方です。これは一見自主的で正しいことのようですが、今日、他人に迷惑をかけなければいいと麻薬に手を出したり、見つかったら返せばいいのではないかと万引きする人たちを見ると、人間の良心は絶対的なものではなく、いかにその基準を容易に変化させるものであるかを知ることができます。人間は、自分が考える善悪の基準によってではなく、神様が示す基準を受け入れるのでなければ、本当の正しさの中に生きることは出来ません。人間が、現在のような自己中心の判断基準を持ったのは、神様によって創造された最初の人アダムによるのであり、私たち人間はそれ以来今日まで、彼の性質を受け継いできました。そのような生き方は、神様の願う基準に合っていませんから、全ての人は神様から最も遠く離れた所である「地獄」に行かなければならないのです。
●しかし神様は、そのような失敗したアダムの性質を受け継いでいるような人間でさえも愛されて、ご自分の独り子イエス様を、地獄へ行かなければならない人間の身代わりとして十字架の上で死なせることによって、人間が持った罪を赦そうとされたのです。しかもその死に方は、イエス様が来られる約1300年ほど前から、モーセを通して示され(民数記21:5−9)、イエス様はその預言の通りに「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。(ヨハネ3:14)」と語って、十字架につかれたのです。神様が、「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。(民数記21:8)」と語られたように、人類の全ての罪を負われたイエス様は、荒野の蛇のような神様から呪われた姿をとって、十字架に架かりました。しかし、このイエス様を自分の救いのためであると信じて仰ぎ見る者には、「人の子(イエス・キリスト)にあって永遠のいのちを持つ(ヨハネ3:15)」ことを約束してくださいました。
●御子イエス様を十字架に架けるという神様の計画は、イスラエルの歴史の中では、ローマ帝国がイスラエルを支配してから約200年程の間だけに実行できたことであり、またその約1000年程前に、ダビデを通して預言された十字架に架かるイエス様の姿も、詩篇22篇の通りに成就しました。これらの事柄によっても、御子イエス様が十字架に架かることによって、私たちの罪が赦されて「救われる」という神様の御計画は、真実であるということが証明されます。しかし全ての人間に対するこの救いは、人の行いや犠牲等によるのではなく、神様から一方的に無条件で与えられるものですが、救いの内容である実際的なわざは、それを信じて受け入れる人だけに行われるのです。私たちは、イエス様の十字架上の死を通して示された神様の愛に感謝して、この「受難週」を過ごしましょう。