2004年 5月 15日(土)

キリストの悲しみ

●このところ映画『パッション』を観た人と話をする機会が度々あります。今までは、文字で書かれた聖書を読んでいましたが、突然映像の聖書を見せられたという感じです。そしてなんとなく漠然としていたことの意味が、映画の画面と共に、ふと明らかになったりするのです。例えば、イエスが確かに死んでいるかどうかを確かめるために、ローマ兵が十字架のイエスを槍で突き刺す場面があります。その個所は、聖書に次のように書かれています。
「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」(ヨハネ19:34 )
●映画では、イエスのわき腹から水が勢いよくほとばしり、兵士の顔にかかります。水は、体の内部で強い圧力がかかっていたようです。私は以前に、医者の解説で、イエスの体内で血と水に分かれたのは、すでに心臓が破裂し、血が横隔膜の上に溜まり、それが時間を経て血の塊(血餅)と水(血清)に分離していたのであるという文書を読んだことがあったので、ああ実際はこのようになるんだと確認できました。
●しかし私たちが、普段生活をしていて、驚いた時や強い運動をした時に、「心臓が破裂しそうだ」などと言うことがありますが、外からの圧力ではなく、体内で実際に心臓が破裂した人の話は、あまり聞いたことがありません。ではイエスの心臓は、なぜ破裂したのでしょうか。私は勿論、医学的な知識はありませんから、医学的な説明は出来ませんが、このような状態にあったのではないかと想像しています。
●イエスは、十字架に架かる前に、ゲッセマネの園で祈られましたが、その時の様子は聖書に次のように書かれています。
「それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。」(マタイ26:37 )
「そのとき、イエスは彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。』」(マタイ26:38 )
「そして彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。』」(マルコ14:34 )
これらの記述からすると、イエスの祈りは、十字架に架かる前に、残酷な鞭打ちや十字架刑による痛みを予想して、その痛みから逃れるためのものではなく、死ぬほどのものであった「悲しみ」についての祈りであったようです。私たちは、大きな問題に直面するとお腹が痛くなり、更にそのことが続くと、今度は心臓が圧迫され痛みを覚えます。イエスの「悲しみ」は、そのような状態をもたらし、そして実際に心臓が破裂したのです。その「悲しみ」とは、イエスが父なる神から引き離されることだと思います。
●イエスは、いつも幼子が「アバ(お父ちゃん!)」と父親に呼びかけるような親しさをもって、父なる神と交わりを持っておられました。しかしイエスは、全ての人の罪を負い、十字架の上で父なる神から引き離されなければなりませんでした。それがイエスにとって、最大の「悲しみ」であり、死ぬほどのものであったのです。聖書には、次のように書かれています。
「三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。(マタイ27:46 )」
イエスは、神から完全に引き離される体験、つまり私たちが行かなければならない地獄に行くという体験をしなければなりませんでした。それがイエスを心臓を破裂させるほどの「悲しみ」をもたらしたのだと思います。クリスチャンは、イエスによって与えられた救いを感謝しますが、イエスに本当の苦しみをもたらした「悲しみ」は、たぶん私たちが想像しても理解出来ないほどの苦しみでしょう。ただ私たちは、救われたことの価値をもっと理解させてくださいと祈るだけです。