| 2004年 5月 29日(土) |
お楽しみ様
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●また三橋師に関連することですが、御子息が次のように語っておられました。
「父は、日曜礼拝でメッセージ(説教)が終って講壇から下りて来た時に、信徒さんに『お疲れ様でした』と言われるのがとても嫌いでした。父は『神様のメッセージを伝えるという素晴らしい働きを喜んでさせて頂いているのに、それがなぜ疲れることになるのか。”お疲れ様”でなくて”お楽しみ様”だよ』と言っていました。」
●勿論、三橋師が考えておられることと、私が感じていることとは異なるのかもしれませんが、私もこれには同感です。まことの羊飼いは、イエス・キリストであり、クリスチャンはその牧場の羊たちで、詩篇23篇に
「 主(イエス・キリスト)は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主(イエス・キリスト)は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇23:1,2)
とありますが、牧師は、まことの羊飼いであるキリストの下で、信徒さんの励ましと霊的な養いのために、神のことばである聖書の中から、自分の群れのその時にふさわしい言葉と説明を加えたメッセージを、いわば食物となる「緑の青草」と「飲み水」になって欲しいと願いながら講壇から語ります。ですから信徒さんが今何を欲しているのかを知ることや、それにふさわしい助けとなる言葉を語ることは、牧師の重要な働きですし、また多くの牧師さんはそのために日々心を使われておられると思います。
●私もそのような努力をしているつもりですが、実際に行なっていて、「メッセージを語っていながら、自分の心の中では『そうだ、そうだ』と思い、むしろ励まされているのは自分なんです」と信徒さんに告白することがあります。その心境は、まさに”お疲れ様”ではなく、”お楽しみ様”なのです。つまり神が私たちに約束している聖書のことばは、みことばそのものに力がありますから、声に出して告白するならば、何倍もの生きた励ましのことばとなって自分に返ってくるのです。ですから牧師は、信徒さんに与えようとしていながら、結果的にその素晴らしい作用によって、自分も祝福されているのです。
●これを読んでおられるあなたが、他の人にみことばを教えたり語ったりする立場にないとしても、次のようにしてごらんなさい。同様の効果が期待できます。それは、自分一人の場所で、牧師がメッセージをしているように、立って、声に出して、聖書を読むのです。そうすると黙読にはない、ことばの響きによって心に励ましを受けるでしょう。それは、書かれている聖書のことばの内容を約束しているのは、天地万物を創造され今も支配されている神だからです。そのみことばの内容が実現することを期待して告白するならば、まさにそこから”お楽しみ”の世界が開かれてくるでしょう。
●さて、明日は日曜日。牧師としての私は、これから「緑の青草」と「飲み水」となるべきみことばを用意しようと思っています。