| 2004年 5月 7日(金) |
地獄の実在
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■5月3日(月)の日記で、映画『パッション』を紹介する文を書きました。その後、私はクリスチャンに会う度に、「パッションを観た?」と訊いています。今日も聖書学院の学生への講義の時に、「パッションを観た?」と訊きました。学生達は、大型連休の間、休みではなく青年大会の奉仕に携わっていたので、未だ観る時間がなかったようでした。学生の一人が、「先生、クリスチャンで『あの映画は、残酷なシーンが多くて、いやな映画だ!』と言っている人がいましたよ」と言いました。えっ?と思いましたが、確かにあの映画を観てショック死をした人も出たということですから、あながちその見解も外れているというわけではないでしょう。しかし私は言いました。「確かにそのような見方もできるかもしれない。でも私たちが2,000年前に居て、イエス様の裁判と死刑の場に立ち会ったら、きっとあのような光景を見たと思う。」と・・・。
■私が、あの映画を観て涙を流したのは、イエス・キリストがかわいそうだということではなく、彼の受けた痛みと苦しみは、実は私が受けなければならなかったものであり、キリストは私の身代わりとしてそれを受けてくださったことを、今一度確認したからです。ですから残酷に見えたシーンに、自分がクリスチャンとしてどのようにかかわっているのかということの理解の仕方によって、いやな場面になるか、感謝の場面になるか見方が異なると思います。
■実は、鞭打ちや十字架刑の痛々しい場面よりももっと深いところで、キリストは更に大きな苦しみを体験されていたのです。キリストは、その苦しみのゆえに、心臓が破裂し、体内に流れ出た血液が水と血の塊に分離し、そのために兵士がキリストのわき腹を刺した時、体内から水が噴出したとされています。キリストの心臓が破裂するほどの苦しみとは、鞭打ちや十字架刑の痛みだけではなく、神から全く引き離される所である《地獄》行きを体験するということでした。それは、私自身が行かなければならない所なのでした。神から全く断絶される地獄での苦しみは、鞭打ちや十字架刑では想像できない苦しみであると思いますが、誰もその苦しみを想像することは出来ないでしょう。ある人は、クリスチャンはすでに救われたのだから、《地獄》について考えるべきではなく、《天国》だけについて考えていればいいと言います。しかし《地獄》の恐ろしさを少しでも思うことが出来るならば、救われた《天国》がいかに素晴らしいものであるかということを知ることが出来るでしょう。
■ある本に次のような文が載っていました。「最近、ある人と話していてショックを受けた。といういのはその話の内容が、私の信じることと全く違っていたからだ。少なくとも私は、その人が同じクリスチャンだとは思えなかった。その人は、地獄は存在しないという。地獄は、聖書が書かれた当時の人々の世界観の反映でしかなく、神話であるという。話はどこまでいってもかみ合わない。しかし、地獄と天国とは私には、まごうことのない実在なのである。(マタイ5:30、26:29) 私の信仰生活で、地獄は生々しい迫真性を帯びている。それゆえに、私は半生を神に背き続けたどぶ泥のような人間であるにもかかわらず、キリストの十字架の贖罪によって、地獄の王であるサタンの奴隷状態から解放され、日々、キリストの血潮によって罪を赦されつつ、天国の旅路を感謝してたどるのである。神の愛は、地獄の存在を前提にしてこそ 身にしみてわかる。・・・」
■イエス・キリストの鞭打ちと十字架上での苦しみを通した《地獄》の体験は、私たちに解放と喜びの《天国》を約束するものです。ですからキリストの傷と血と痛みをしっかり見つめ、その中から神の愛を受け取りたいものです。