| 2004年 5月 9日(日) |
復活のいのち/4★キリストにある豊かさ
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【礼拝メッセージの要約】
●映画『パッション』を観て、残酷なシーンを嫌う人もいるそうです。しかし、聖書は次のように言っています。
「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)
イエス・キリストは、全身鞭打たれ、肉体を裂いて血を流されました。その傷の一つ一つが、信じ受け入れる私たちの癒しになるとは、神の計画はなんと私たちの理解を超えて不思議なことでしょうか。残酷と思われるシーンも、そのような視点から観ると、そこには人類に対する神の愛とその計画を自ら受け入れられたキリストへの感謝の思いが生まれてくることでしょう。
●復活されたキリストが、聖霊を通して信じる者に与えてくださる「永遠のいのち」とは、実は神ご自身です。そうだとするならば、クリスチャンは、自分の霊の中に、なんと父・子・聖霊の三位一体の神が臨在するのです。この事実は、私たちの信仰生活のあり方を変えます。例えば、祈りにおいて、必ずしも大声をあげなくても神は聞いてくださっていることの確信を持つことが出来ます。マタイ6:6には、「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」とあります。自分の霊の中におられる神を意識するならば、神の語りかけの声も心の中で聞くことが出来ます。またクリスチャンであっても時に誘惑によって失敗する罪の多くを、事前に防御することが出来るでしょう。更に、行動に出すことがなかったけれど思いの中で犯す罪についても、敏感になることでしょう。このように神が身近に共におられると意識することは、多くの悪しき状態から守られます。
●一方、神が内住するということは、私たち人間が、神の全てを持っているという驚くべきことを意味します。神はなぜこのような、不思議でしかも大きなことを計画されたのでしょうか。聖書は次のように語ります。
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリ8:9)
イエス・キリストは、人類の救いのために、罪を負って身代わりの死を受けられましたが、復活し聖霊によって信じ受け入れる人が「富む者」となるために、その人の中に内住されたのです。その豊かさは、天国に入ることの約束や心の平安だけでなく、経済・健康・人間関係等においても、「富む者」とさせようとしているのです。
●しかし内住される神が、私たちの霊の中から外に流れ出ていかなければ、私たちは神の豊かさを手にすることはできません。それを手にしようとするならば、「信仰」を用いることが必要です。「信仰」は、私たちの五感(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚)によって得られものではなく、神様が約束されたことば、つまり聖書に約束されていることを信じ受け入れることによって生まれます。新改訳聖書によると、信仰を意味する「信仰(名詞)」および「信じ(動詞)」ということばは、旧約聖書では 38回記述されているのに対し、新約聖書では 471回記述されています。なんと旧約聖書に対して新約聖書では、約12倍記述されているのです。なぜこのような違いがあるのでしょうか。これは、旧約時代は、律法を守るつまり人の行いを通して神の祝福を受けようとすることが全面に出されていました。人が、文字に書かれた律法を守ろうとするためには、行いを実行する努力が大切であって、神に対する「信仰」はそれほど必要ではありません。しかし新約時代に示されたイエス・キリストの十字架上の死と復活よって用意された恵みを受取るためには、人は素直な心でただ信じて受取るという「信仰」が必要とされているからです。
●「信仰」は、信じ込もうとする人の努力から生まれるものではなく、キリストの復活のいのちの中にあるものです。ですから私たちが、神様が用意された豊かさの中にあって「富む者」となるためには、信じる者に内住される神様を信じ、約束されたみことばをしっかりと保つことが大切です。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)