2004年 6月 6日(日)

内なる性質との対決 【礼拝メッセージの要約】

●昨日、NHK教育TVで、ヤンキー先生で知られている北星学園余市高校の番組を見ました。そこで私が感動したのは、あの義家先生ばかりでなく学校全体が教師集団として、様々な問題を抱えている生徒たちの教育に情熱を持って取り組んでおられる姿と、失敗を何度か繰り返し、教師に叱られながらそれでも「お前と卒業まで付き合うから、頑張れ!」と声をかけてくれる教師との絆にもう一度チャレンジしてみようとする生徒の姿でした。教育する方もされる方も、真剣に生きているという実感が画面から伝わってきました。
●クリスチャンは、日曜日に礼拝に出席し、また他の日も集会に集います。そして献金を捧げ、礼拝や集会に集う度に交通費等のお金を使います。このように時間もお金も用いて神様の御前に出ますが、それをどのような思いから行なっているのでしょうか。失礼ですが、もしただの惰性や義務感で行なっているならば、ちょっと考えてみる必要はありそうです。クリスチャンを余市高校の生徒たちと同じ次元で考えるわけではありませんが、神様はこれまでに私たちが多くの失敗をし、また教会生活に「不登教?」しても、もう一度立ち上がるようにと何度語ってくださったことでしょうか。ですから自分の信仰生活を確認して、今一度、熱く燃えようではありませんか。それは、自分の内なる性質との対決です。
●そのために、まずクリスチャン自身が現在置かれている状態を見てみましょう。創世記3章1節から13節までを読んでみますと、そこには、最初の人アダムとエバが、神様によって禁じられていた木の実を食べるという行為によって、神様の意図に反する行為を行い、自分は誰の指図も受けないという生き方を選んだために、《罪(創造主である神を必要としないで逆らう生き方)》という性質を自分の中に取り込むことになった経緯が書かれています。その結果、人は神様との親しい交わりを持つ事が困難になりました。しかしそのような彼等に「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。(創世3:21)」のです。これが、後にイエス様が鞭打たれ、十字架に架けられることによって人間の罪が贖われるということを意味していますが、このように血を流した毛皮に表わされるイエス・キリストに覆われることによってのみ、人は神様の前に出て祈り交わることが出来るのです。しかし神様の御前に出ることが許されているということが、私たちの罪の性質が無くなったことを意味しているのではありません。人間は、毛皮によって見られて恥ずかしい部分を隠されていますが、依然として罪の性質は持っているのです。それが『クリスチャンは、罪赦された罪人である』と表現される意味です。私たちが自分の罪の性質から解放されるのは、キリストによって体の復活に与る時です。
●しかし「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(ローマ6:8)」とパウロが語るように、私たちがキリストと共に自分の内なる自我は死んだということを信仰によって受け入れるならば、私たちは古い罪の性質に従って生きる必要はなく、聖霊様の導きによって神様のみこころの中に生きることが出来るのです。そのために私たちは、創世記3章に見られる、古い罪の性質の3つの特徴に注目し、それらから解放されることを考えて見ましょう。
●まず罪の性質の中にある第一のものは、【自己中心】です。神様が禁じた木の実が「いかにも好ましかった。(創世3:6)」とあるように、事実とは異なって好ましいように見えました。それは、木が変わったわけではなく、神様の思いからではなく自分の思いを中心にした時に、それが好ましい物に見えたのです。罪の性質は、このようにいつも自分を中心に置いています。ですから、私たちが失敗しないためには、「事実を相手の側から見る余裕を持つ」ことが必要です。その「相手の側」とは、他の人がそれをどう思うかという視点であり、それに関して聖書が語っていることがあるか、あるいはイエス様ならそれをどう判断されるかという視点を持つことです。
●また罪の性質の中にある第二のものは、【自己防衛】です。悪しきものから自己を守るということは、間違いではありません。しかし創世記3:9を見ると、神様の「あなたは、どこにいるのか。」という質問に対して、アダムは全く見当外れの答えをしています。それは、自分が神様からの警告を破ったために、どのように言い訳しようかと彼があわてている様子を示しています。私たちは、神様との関係においても、他の人との関係においても、いつも潔白な立場に身を置いておくべきです。イエス様は、マタイ5:37で「あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」と語っています。一般に使われている「二枚舌を使う」「本音と建前を使い分ける」「嘘も方便」等は、聖霊様が導かれる内容には含まれていません。
●そして罪の性質の中にある第三のものは、【責任転嫁】です。アダムとエバは、神様の警告を破った時に、そのように自分がせざるをえなかった理由を、直接的には他の者のせいにし、間接的には神様に責任があると言いました。失敗をした後に彼等が取るべき道は、「ごめんなさい」と言うことでした。クリスチャンは、失敗をしない者ではなく、完成されていないゆえに失敗する可能性を罪の性質の中に秘めている者です。神様は、そのことをご存知で、聖霊様を通していつも導き助けようとされています。ですから失敗した時は、「ごめんなさい」と素直に神様の御前に出るといいのです。それともう一つ、神様と他の人に対して「ありがとう」という感謝の言葉をいつも保つならば、私たちは多くの失敗を犯さずに済むでしょう。
自分の新しい歩みに、チャレンジしてみましょう。