| 2004年 7月 9日(金) |
苦難の中で
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●私の周囲には、本人がどの程度に感じておられるのかは分りませんが、苦難の中に置かれていると思われる方々がいます。またそれを知っている私自身も心痛み、私も苦難の中にいるのかなとも思いますが、そう思うのは失礼なほど当の本人は当然誰よりも苦しんでいるのです。その苦しみは、直接的な痛さ、辛さ、落ち込み、後悔、解決の見通しのない不安等と共に、周囲の人たちにどのように思われているのだろうかなどということが加わると更に苦痛が増してきます。
●特に一般にクリスチャンの証しに類するものを聞いたり読んだりしていると、自分の願っていることが実現したり、他の人がうらやむような出来事が自分に起こったりすると、声高に証しされますが、病気や事故や問題等が証しで取り上げられることはほとんどありません。そのようなことが思いの片隅にあるせいか、心地よくない出来事が自分の身に起こると、それによって自分の信仰の弱さが暴露されたかもしれないということを恐れます。
●でも自分の人生が苦しみを経ないで、自分の願う通りのことが早期に実現し、他人から非難のうわさにされるような問題が起こらないで平穏である生活が、神様から祝福されていることの証拠であり、自分の信仰の正しさの証明であるかのような考えを、私たちはいつから持ちはじめたのでしょうか。もしそうであるならば、イエス様は、十字架に架かるはるか以前から、父なる神様から見捨てられ、彼は信仰の弱い敗者であると真っ先に認定されたことでしょう。しかしアブラハムをはじめ、信仰の勇者として聖書に名を残している多くの人たちは、平穏で何事もなかったような平坦な人生を送ったわけではありません。むしろ苦難の中に、彼等の信仰が証明されていきました。ですから苦難がイエス様に起こったならば、私たちに起こって当然です。イエス様が他人から誤解されたなら、私たちが誤解を受けて苦しむのも当然です。
もう「なぜ」自分にこのことが起こったのだろうかという出口の見えない質問を、自分に対して問いかけるのを止めましょう。
もう他人の人生と比較して、「よきこと」を拾い集めたことで誇ったり、「悪しきこと」に出会ったことで、悲しむことを止めましょう。
●アウシュヴィッツ強制収容所での生活を体験したフランクルは、その著書『それでも人生にイエスと言う』の中で次のように述べています。
「私たちはさまざまなやりかたで、人生を意味あるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。・・・・不幸に耐えて苦悩するそのことで、人間は高貴にされるのです。」
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出す・・・」(新約聖書/ローマ5:3、4)