| 2004年 9月 19日(日) |
しなやかな信仰/1
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【礼拝メッセージ要約】
●クリスチャンは、「強い信仰」を持ちたいと願うでしょう。その「強い信仰」とは、どのような信仰でしょうか。一般には、いつも積極的な言葉を告白し、問題に負けず、苦境を撥ね返す姿です。私たちは、そのような信仰を持つようにというメッセージを多く聞いてきました。またそうあり続けることが出来るならば、それは素晴らしいと思います。しかし問題のない時は、そのような姿を示すことが出来ますが、苦しいことが続き、また祈っても願っても、事が実現しない日々が続くと、そのような信仰持ち続けることの難しさを感じます。信仰とは、そのような姿だけなのでしょうか。
●イエス様によって「あなたの信仰はりっぱです」と誉められた人が、マタイの福音書15章21〜28節に紹介されています。この女性は、上のような「強い信仰」を持ち続けたのでしょうか。私は、そのようには思えません。むしろ名づけるならば、「しなやかな信仰」といえるでしょう。その信仰の持ち主とは、ツロとシドンの地方に住んでいたひとりのカナン人の女です。この女性が、この地方に住んでいたことは、興味深いことです。なぜならエゼキエル書26章によると、ツロはバビロニアによって攻撃されたイスラエルをあざけったことによって、主が「あなたをのろう者をわたしはのろう。(創世記 12:3 )」と言われたように主からのろわれたからです。つまりこのカナン人の女は、主に祝福を求める立場にない者でした。しかしイエス様は、あえてこの女性に出会うためにこの地に行かれたのです。ここで私たちが学ぶ第一のことは、主は、特権のない人にも目をとめられるということです。あなたは、時々、失敗して神様との関係が断たれていると感じたことはありませんか。また熱心でないことで、自分は主に求める資格がないのだと考えたことはありませんか。そんな時こそイエス様は、あなたのそばに立ち寄って下さるのです。ですからあなたが助けを求めたいと思っている限り、主から見捨てられたなどと決して考えないでください。
●次に、カナン人の女は、イエス様がその地方に来られたと知ると、追いかけて「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び続けました。それに対するイエス様の反応は、ちょっと意外でした。それは、一言もお答えにならず(15:23)、彼女の求めに応じることが出来ないことを告げ(15:24 )、更に「犬」という軽い軽蔑とも受け取られる言葉をもって彼女の求めを拒否されました(15:26)。これらの一連のイエス様の言動は、私たちに戸惑いを感じさせますが、これは彼女の信仰を確認するためにとったイエス様の考えられた行動であったと思われます。実際、それでも彼女が求め続けた時に、最後にイエス様は彼女を「あなたの信仰はりっぱです」と誉め、願ったとおりに彼女の娘は癒されました。このことから、ここで学ぶ第二のことは、主は、執拗に求める者を決して拒まないということです。あなたが願っているとおりのかたちではないかもしれませんが、主は確かにこたえられるのです。
●ここまでの彼女の姿から、単純に信仰の強い人と見るならば、私たち多くの者は、彼女のような信仰を持つことは難しいと思われるでしょう。なぜなら、実際に悪霊につかれた娘をもっていることを考えてみてください。悪霊につかれた人の多くは、身なりを構わない、攻撃的な汚い言葉を発する、他人に対して暴力的、自分は自殺をしたがる等の言動で、お世話をしようとするならば、1日中振り回されることでしょう。カナン人の女は、いくら愛する自分の娘であっても、世話をするのに疲れ、娘が直らないのではないかと不安になったり、祈りがこたえられなかったと何度も失望したに違いありません。そんな中で、イエス様から冷たく扱われても、ユーモアを感じさせる応答をしたということは、彼女自身の力によるのではなく、主の知恵によるものだと思います。つまり第三の学びは、主は、自分を捨て、主を求める者を受け入れてくださるということです。
●母親であるカナン人の女は、娘をなおすために様々な試みをし、どれもうまくいかずに苦しみ、涙を流し、疲れきっていたでしょう。しかし彼女が決して、離さなかったものは、イエス様には娘を癒すことが出来るという信仰でした。つまり彼女の信仰を「しなやかな信仰」と名づけたのは、イエス様によって「あなたは小犬だ」と気分を害するような言葉を言われた時、彼女は「主よ。そのとおりです。」と、一歩退いてイエス様の言葉を受け入れたという点からです。
●「しなやか」という用語の語源は、「しなる(やわらかに曲がる。たわむ。)」ということからきており、また「しなる」とは、「死成る」という言葉を当てはめて、一度死んだようになるがまたよみがえるという意味があるそうです。彼女が、「私は確かに小犬にすぎませんと認めた時、彼女は自分に死に、自我に死に、プライドを捨てました。その時に、イエス様の心を動かす知恵ある言葉が、彼女の口から出ました。ローマ人への手紙6章8節では、
◆「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる」
と語られています。イエス様は、十字架の上で死んで終わったのではなく、復活されました。私たちの信仰も、イエス様とともにあるならば、絶えず復活していなければなりません。しかし私たちが意識することは、復活することではなく、自分に自我に死ぬことだけです。なぜなら「死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる」からです。キリストにあって死ぬことを体験した信仰が、「しなやか(死成やか)な信仰」なのです。クリスチャンよ、苦しい時には「苦しい」と言い、状態が悪化した時には涙を流し、祈ってもまだ答えを得ない時は、ため息をついていいのです。しかし決して主を疑ってはいけません。また主を捨てようと思ってはなりません。なぜなら私たちは、主を離れてはどこにも行く所がないのですから・・・。