| 2004年 9月 2日(木) |
月であれ!
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●台風16号一過。気のせいか、月が大きく綺麗に見える。月を見ていると、クリスチャンが月にたとえられることを思う。太陽ではない。月だ。太陽は、自分で光を放つが、月は太陽の光を反射しているにすぎないからだ。キリストは、クリスチャンに対して、「あなたがたは、世界の光です。(マタイ5:14)」と語られた。心を暗くする問題が日々起こっている世界において、あなたは光とならなければならない。しかしクリスチャンの光としての役割を果たす力は、どこから来るのだろうか? それは「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)」と語られたキリストからくる。
●クリスチャンでなくても、真面目に生きようとする人は、「よい行い」をしようと心がける。それが光としての生き方にふさわしい。しかし「よい行い」とはどのような行いだろうか。「よい行い」であると思って、相手にしてあげたが、その人にはおせっかいで迷惑だと受け取られたとしたら、それはよい行いだろうか。またよいと思われることをしてあげたが、その人は、感謝をしなかったので、してあげた自分の気持ちが暗くなってしまった。そんな時の行いは、それでもよい行いなのだろうか。そのように考えると、よい行いそのものが、何を基準によいといえるのかさえ曖昧になってしまう。つまり私たち人間は、よい行いという「光」を自分の中からつくり出すことができない存在なのだ。
●キリストは、大胆に「わたしは、世の光です。」と語った。また「わたしのさばきは正しいのです。(ヨハネ5:30)」とも語られた。自分の判断が正しいと言う者は、よほどの嘘つきか、傲慢な者か、あるいは言った通りに正しい者かのいずれかだ。クリスチャンよ、あなたはキリストを「嘘つき」と軽蔑するだろうか、あるいは「傲慢な者」と非難するだろうか。もしどちらでもなければ、キリストだけが正しい判断ができる「世の光」と認めよう。だからクリスチャンが「世界の光」となるためには、キリストの判断を求めるとよい。あなたが考えるよい行いではなく、相手の謝辞を期待するよい行いでもなく、自分は何をすべきかをいつもキリストに伺うとよい。それが月としてのクリスチャンの立場だ。自分で光ろうとするのではなく、キリストの声を聞いてそれを行動に移せばよいのだ。またキリストの声を聞いて生きればよいのだ。そうして行動するなら、たとえあなたの行動に対して、感謝を受けることがなかったとしても、更に誤解を受けて汚い言葉を浴びせられたとしても、そのことでひどく落ち込むことはない。なぜならキリストご自身も、約2000年前にこの地上を歩まれた時、そのようなことを体験されたからだ。キリストの光を反映する者は、キリストが受けたような評価を受ける。それでいい。クリスチャンよ、太陽になろうとあせることなく、月に徹しよう。