| 2005年 1月 11日(火) |
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●昨日の日記を読んだ方から、次のようなメールをいただきました。
「明けましておめでとうございます。日記、礼拝メッセージは欠かさず読んで励まされています。昨日の日記はプリントアウトして娘と読みました。救われるより難しい!救いはイエス様からの一方的な贈り物ですが、大人に成るという事は、一生掛かって出来るかしら?と思わずにはいられませんでした。今日まで生きて来て全然出来ていないな〜と、思ったのは私だけでしょうか?それでも聖霊様の助けを得ながら少しづつでも大人に成れるよう、今年も歩みたいと思います。」
●確かにルドヤード・キップリングの詩は、自己の死を体験しなければ、このような姿にはなれないでしょう。それは、イエス・キリストの姿でもあります。キリストは、人々に最大の愛を示したにもかかわらず、反対に誤解を受け、非難され、そして最後には十字架に架けられたのです。キリストが語られた
「だれでもわた(キリスト)について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカの福音書9:23)
は、自己の死の勧めです。多くの人は、「自分の十字架」を単なる人生の苦難と捉えています。もしそうであったら、キリストは、「日々自分の重荷を負い」と語ったことでしょう。しかし十字架は、重き荷として用意されたものではありません。十字架を負う人が、その上で死ぬためのものです。キップリングが指摘するようには、私たちは一度に「自分を捨て」きれるものではありません。少しずつ、少しずつ、日々自我と決別していくのです。上の写真は、映画『パッション』の宣伝として、別の方から送られてきましたので、紹介させていただきます。