| 2005年 1月 9日(日) |
聖霊の与え主
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【礼拝メッセージ要約】
●今日は、ヨハネ福音書の講解メッセージの12回目、ヨハネ7章です。
◆祭り(仮庵の祭り)の終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37、38)
ここは神殿の広場で、「仮庵の祭り」に来た人々でごった返していました。そのでイエス様は、大声で叫ぶようにして人々に言われたのです。もし人々に丁寧に教えようとしたのであるならば、このような雑踏の中で叫ぶことはしなかったでしょう。大声で言ったのは、そこにいた人々の思いや行為に対して、何らかの警告を与えようとしていたからです。人々がとっていた行動は、イエス様の目にはピント外れのものに感じられました。ですからイエス様は、人々にそのような心の向け方を止めて、「わたしを信じなさい」と言われたのです。これをイメージするには、日本の正月の初詣の様子に重ねると分かりやすいかもしれません。人々は、祭壇の前で祈ろうとして押し寄せていましたが、イエス様はそのような人々に対して、「あなた方が求めているものは、祭壇に祈るのではなく、このわたしが言うことを信じることによって与えられます。」と叫んだのです。このことばを聞いて人々は、きっと驚いたことでしょう。
●日本人の多くは、お正月には「神棚」に手を合わせたり、「初詣」に出かけます。またお正月行事のほとんどは、先週も述べたように、人がトシ(歳)神とどのような関係を持つのかということと関連してできたものです。しかしそれらの宗教行事は、毎年繰り返しても、それによって実際に求めているものを得ることができなければ空しいものです。ユースウイズアミッションの昨年の統計によると、日本の人口約1億2700万人の中で、クリスチャンは、1.6%ですが、仏教と関係を持っている人は、約70%、また他の宗教と関係を持っている人は、24%、そして無宗教の人は、4%です。つまり日本人の約96%の人たちは、何かの宗教と関係を持っており、日本人は宗教的な国民だといえます。しかし大切なことは、宗教的行為を行うことが、必ずしも自分が求めているものの実体を得るということではありません。例えば先週の話のように、「お屠蘇」を飲んだからといって、その人の心が死んで復活して新しくなるわけではありません。新しい自分になりたいと求めることは尊いことですが、現実にそのようになるということとは違います。イエス様は、自分にはその求めているものを与えることができる立場と権威があると主張されたのです。人は、イエス様のそのことばを信じて一歩を踏み出すか、拒否するかのどちらかを選ぶことができます。
●イスラエルの「仮庵の祭り」とは、9月か10月に行われる収穫感謝と冬に降る雨の祈願を合わせた祭りで、最終的には、人があらゆる問題から救われることを意味していました。この祭りの間、人々は家の外に簡単な小屋を作って、7日間そこで過ごすので「仮庵」といわれます。そして祭りの終わり頃に、神殿で祭司がシロアム池から汲んできた水を祭壇にかける時に、祭りは最高潮に達します。その時人々は、旧約聖書イザヤ書に書かれている、ユダヤ人が神によって救われるという約束を思い出して喜びます。
◆その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」(イザヤ書12:1−3)
神殿に集った人々は、祭司が水を祭壇にかける様子を見て、救いの約束があることを喜びました。しかしそれは、約束であって実際に救いを手にしたわけではありません。イエス様は、神がされた約束を実現するのは、ご自身が十字架に架かって死に、そして3日目に復活し、その後天に上られて、ペンテコステの日に聖霊を送られることによって実現することを知らせたのです。
●面白いことに、「仮庵の祭り」と「生ける水」の関係は、日本の「お正月」における「若水」を汲む行事に似ています。「若水」とは、元旦の朝、年男あるいは主人や長男が、井戸や谷川にその年最初の水を汲みにいき、これを飲むと生気がみなぎり、厄除けの効果があるとされているのです。イエス様は、このように人を新しくする水を「生ける水」と呼び、人が生きていくためには、水は欠かすことができないように、人が真に生きるためには人の命ではなく、永遠に滅びることのない神の命であるところの「聖霊」を受けることを勧めました。なんと日本とイスラエルという国も民族も異なる2つの間に、人間が永遠に変ることなく生きるために必要なものは、「水」に象徴される「命」であることが明らかになったのです。聖書は、イエス・キリストを信じ受け入れることによって、「命」である「生ける水(聖霊)」が与えられることを約束しています。