2006年 10月 1日(日)

キリストの救い/2  地獄からの救い

【メッセージ要約】
●先週の水曜日の夜、我が家の前の家に救急車がとまり、おばあさんが病院に運ばれましたが、3日後に亡くなり、昨晩葬儀が行われました。普段は友達と外出したり、普通に生活をしていました。ですから年齢は高かったのですが、急に死を迎えるなんて思いもよりませんでした。このように誰でもいつかは自分の死を迎えるのですが、死後の世界について確信を持って生活をしている人は、必ずしも多くはありません。先日も、ある教会の知人が電話をかけてきて、「地獄」に関する本を入手したいというのです。急にどうしたのかと問うと、地獄の存在を今一度確認をして、自分の信仰をしっかりしておきたいということでした。

●私たちが旅行する時には、事前の調べをし、行った先での行動を予想してあらかじめ準備をします。海外旅行ならなおさら準備を念入りにしますが、死後の世界への旅行準備はいかがでしょうか。先日、丹波哲郎氏が亡くなりましたが、彼には死後の世界に関する著書がありますが、その内容が正しかったのかどうかについて、実地検分をしているでしょうか。特に死後の世界に関するデータは少ないですから、正しい案内書が必要です。その点で釈迦は、死後の世界については知らないとしていますが、キリストは、ルカの福音書16:19〜31で死後の世界について語っています。聖書は、死後の世界についての重要な案内書です。この箇所の登場人物に、ラザロという名があることから、私は、これがたとえ話ではなく、実話であると信じます。今日は、この箇所から、「救い」の側面である「地獄」からの救いを確認したいと思います。

●キリストは、ルカの福音書16章で、ある金持ちと貧乏人ラザロが死んだが、共に死者の世界の黄泉に行ったと淡々と述べています。そして死者の世界は2つに分かれていて、ラザロは「アブラハムのふところ」といわれる良い所に行き、金持ちは「苦しみの場所」に行ったというのです。なぜ2人が、このように異なった場所に行くようになったのでしょうか。別にラザロは善行を積み、金持ちは悪行を重ねたとは書いてはいません。金持ちが、ぜいたくな生活をすることは、必ずしも悪いこととはいえないでしょう。するとこの違いは、なぜ生じたのでしょうか。ここに一つの手がかりとなることばがあります。
◆マタイ4:4 「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

●前回話したように、人は「体」と「霊」から成り立っています。多くの人たちは、生きるためにパンに代表される衣食住の必要をいかに得るかということについて関心を持ちます。それは「体」の必要を満たすことです。多くの人々の関心はパンにありますが、残念ながら「体」はやがて時が来ると、滅びてしまいます。しかし永遠に残るものそれが「霊」です。「霊」も養い育てられなければなりませんが、それは神に関心を持つこと、神のことばである「聖書」に親しむことによってなされます。金持ちはそのことを知っていたようですが、自分の「体」を満足させることだけに関心を持ち、神について重要視しませんでした。一方ラザロは、極端な貧しさの中にありましたから、自分の死を覚悟し、死の世界も支配しておられる神について意識していたでしょうし、この神は、今の世を正しくさばく方であることを信じ、彼の現状を訴えてもいたことでしょう。それによって、ラザロの心の中には神が意識されていましたが、一方金持ちは神の存在は知っていても、自分の人生において神が必要であると考えることはなかったのです。聖書で扱っている「罪」ということばは、単なる犯罪ではなく、創造主である神を自分の人生に必要としない生き方のことです。犯罪は、その結果生まれます。金持ちは、「体」の必要を容易に満たすことができたために、神への意識が弱まりました。その結果、彼は神から遠く引き離される「苦しみの場所」に行くことになったのです。このように人は、自分の生前の生き方によって死後の世界を自分で決定することになるのです。

●さて、キリストが十字架に架かって死に、復活し、天に上げられた時、死後の世界では大きな変化が起こりました。
◆エペソ4:8(新共同訳)「そこで(キリストは)、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。」    この箇所の説明については、キリストは死んで黄泉に下りましたが、父なる神によって復活し、天に上げられた時、「アブラハムのふところ」にいたすべての人たちを天に引き連れたということです。ですからその後に、キリストを信じ受け入れた人々は、「キリストのみもと」に入ることができると考えられています。そして「キリストのみもと」は、やがて「天国」に含まれ、「苦しみの場所」は、「地獄」に含まれるようになります。
◆黙示20:14「死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」

●「地獄」は、「火の池」「第二の死」と表現されますが、その恐ろしさの一部を見てみましょう。聖書の中に次のような表現があります。
◆マルコ9:48 (新共同訳)「地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。」
うじは、腐肉につくハエの幼虫ですが、そのうじが火に焼けないで、死者を苦しめるとはどういうことでしょうか。キリストによって選ばれ、地獄の体験をしたメアリー・バクスターは、『地獄についての神の啓示』の中で、地獄にいた一人の女性について次のように書いています。
「・・・その穴の底で火が燃え始め、上に吹き上がりその滅びたたましいを炎で包みました。穴の中の滅びたたましいは、骸骨の形の内側に閉じ込められていました。彼女の内側の奥深いところから、絶望の泣き声とうめきの声が聞こえて来ました。虫が何匹も彼女の骸骨の骨からうようよはい出ました。それらの虫は火で焼かれていませんでした。・・・」
私たちも警告されていたにもかかわらず、大きな失敗をする時に、自分でも後悔してもなかなか癒されないような心にうじがわく感じがする体験をしないでしょうか。そしてそれが、火という痛みや苦しみを生じるのです。「地獄」に入る人は、その後悔が永遠に続く苦しみの中にとどまるのです。しかしイエス・キリストを自分の救い主として信じる人には、次のような希望が約束されています。
◆ピリピ3:20 「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」