| 2006年 11月 14日(火) |
いじめ、自殺、殺人
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●昨日もいやなニュースを耳にした。母親が、うるさいからといって、自分の子どもを殴って用水路に捨てて殺したというのだ。自分が生んで育てた子どもをである。またこれとは別に、いじめを原因とする自殺が頻繁に起きている。学識者は、「いのちの重さは、地球より重い」とか「いのちの大切さ」を口にするが、自分のいのちは自分のものであると考える人にとって、また死んでもまた生まれ変わるという輪廻転生を信じている人にとって、自殺は悪であり、いのちは尊いものであることを、いかに教えることが出来るであろうか。生徒の自殺が起きて、生徒にその重要さを語り、そしてその後学校長自らが自殺するということは、少なくとも教育界では、「いのちの尊さ」「自殺の悪」「殺人の悪」を教えることは出来ないのではないだろうか。例えば、「殺人」は他の人の人生を断ち、奪うことになるので、悪だと説明する人がいる。それでは、少女を誘拐して長い間監禁する行為とどこが異なるのか。いじめを行って、他の人を苦しめる行為とどこが異なるのか。これらはどれも悪であり、悪の量的な違いにしかならないのではないか。
●人は、人間の他に絶対な権威と力を持っている神の存在を認めることを好まない。しかし何が善であり、何が悪であるかについての判断は、この神を認める以外には出てこない。今日の人間の迷いは、この絶対神を否定して、人間による判断を持とうとするところにある。聖書は、神が最初の人間に「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:17)」と語ったと記している。つまり神を認めずに、人間が善悪を定める生き方をするならば、やがて人間は行き詰まり、絶望することになる。
●しかしこの絶対神が語る「すべてのいのちは神のもの(エゼキエル18:4)」ということを認めるならば、判断は明確である。「殺人」は、神が他の人に与えたいのちを奪う行為であるので神に対して罪を犯し、神からの裁きは逃れられない。しかも「殺人者も死刑だ。人殺しは、神に似せて造られた者を殺すことだからだ。(創世記9:5)」として神は、殺人者を裁くことを人間に託されている。
では「自殺」はどうか? 自分のいのちは自分のものであると考えるところに、自殺を容易に選んでしまう思いがある。もし自分が所有しているいのちが神のものであるとしたら、自殺は神のものを奪う行為である。これも神からの裁きを免れない。つまり神に対して悪なのである。
そして「いのちの尊さ」については、いのちは神のものであるから尊いのである。自分のいのちも他人のいのちも、絶対神のものであると意識するならば、容易に手を出すことは出来ないし、また軽く扱うことは出来ない。
神の裁きは、今、この世ですぐに起こるとは限らないが、死後の世界においても必ず起こる。人は、絶対神を認めない限り、いのちに関わる判断の混乱は続くことであろう。