2006年 12月 31日(日)

生きた信仰( ヤコブの手紙)8/終わりの時の備え

【メッセージの要約】

●今日は、大晦日。昨日と特に変わった日ではありませんが、大方の人は2006年の「終わり」という意識を強くすることでしょう。私たちは、普段は明日が来るということを当たり前のように信じて生活していますが、時にはこのように「終わり」を意識することは大切です。なぜならば、時間の中に生きている私たちには、1日、1週間、1年、・・・そして一生の終わりという時が必ずあるからです。今日は、このことに関してヤコブ5章1〜11節から考えてみましょう。

●ヤコブ5章1〜11節には、「他人を傷つけても自分の富と地位を求めて生きる人」と「神への信仰によって忍耐を持って生きる人」の姿が描かれています。このどちらもクリスチャンであることに注目する必要があります。
先日私は、アメリカの同時多発テロ事件以後のブッシュ政権を批判したドキュメンタリー映画『華氏911』を製作したマイケル・F・ムーア監督の別の映画を観ました。その中には、自分は立派なクリスチャンだと思っている白人の国会議員にインタビューする場面が描かれています。ムーア監督は、世の富や名声に関心があるクリスチャンにとって、みことば通りに生きることがいかに難しいかを皮肉って、国会議員にインタビューするのです。例えば、キリストがマタイの福音書で、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。・・・あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)」と語ったことばの壁掛けを、議員の部屋の壁に貼ってくれと頼むのです。すると議員達は、心に痛みを覚えるせいか、皆困惑して歯切れの悪い返答しかしません。
クリスチャンの実践的な生活のあり方を語っているヤコブは、このような視点から金持ちのクリスチャンを批判しているのかもしれません。幸か不幸かこの教会には、金持ちと言われる人はいませんが、生きるために最も重要なのが「神」ではなく「富」であるとするならば、持っている富の量に関係なくヤコブが批判する対象になるかもしれません。

●なぜ「富」を信頼することが危険なのでしょうか。ヤコブは、5章9節で、「見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。」と主イエス・キリストの再臨が間近に迫っていることを語っています。つまりキリストが再びこの地上に来られる時は、彼を人生の一番大切な方と信じる者とそうでない者とをはっきり分けて、裁くために来られるからです。世の終わりや人生の終わりは、イエス・キリストが裁き主であることと関係しているのです。今日、私たちが「終わり」の重要性について考えるということは、キリストの再臨をいつも意識して生きるということです。

●ヤコブ5章9節についてリビングバイブルでは、次のように訳しています。
◆「見なさい。 偉大な裁判官である主が、すぐそこまで来ておられます。だから、非難は主にお任せしなさい。」
このことから私たちクリスチャンは、キリストの再臨を覚えて、次の2つのことを意識する必要があるということです。
第一は、キリストは全世界の裁き主として再臨するということです。
救いは、イエスを自分の救い主として受け入れた時に与えられますが、キリストから良い評価を受けて報酬を得るためには、キリストから与えられた「信仰」をよりよく用いた生き方をしなければなりません。
◆ヤコブ1:2-4 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」
そのことを覚えて、フローレンス・ハレルという人が書いた次の詩を読んでみてください。

『狐と欠点』  
もし私が花盛りのぶどう園を持ち
それが日々成長しているときに、
子狐が来てそれを荒らそうとするならば、
私はその子狐を追い払う。
もし私がきよい生活を送り
日々素晴らしく成長しているときに、
小さな欠点がそれをそこなおうとするならば
私はその欠点を追い払う。

●第二は、他の人を裁くことは、キリストに任せた方がよいということです。
私たちは時々自分の近くで、“クリスチャンらしからぬクリスチャン”を見かけることがあります。そしてそのような人を見かけた時に注意してあげなければと思います。しかしそのような思いこそ注意しなければなりません。そのことをキリストが確かに示されたと確信できるならば、他の人に知られることなく個人的に会って愛による忠告することは良いことと思われますが、“クリスチャンらしからぬ”という判断は、往々にして自我から出ることがあります。ですからもし確信を持てなければ、祈ってキリストに任せることによって、より良い結果を得られます。私たちは、自分を裁く人としてではなく、キリストのご性質が外に現れる人になりたいものです。
次のL・B・カウマンの詩を読んでみましょう。
  
イエスの麗しさが
私のうちに見られますように。
主の驚くべきあわれみと純潔が
私のうちに見られますように。
おお、聖霊なる神よ、
私のうまれつきのままの性質を
きよめてください。
イエスの麗しさが
私のうちに見られるまでに。