| 2006年 2月 19日(日) |
主の恵みの中での成長/8 神のみことばの力
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【礼拝メッセージ要約】
●私は今、聖書学院の3年生のクラスで「説教学」を担当しています。もう3学期の学びの時間も残り少なくなりましたが、3月に卒業する学生の中には、次の日から「牧師」と呼ばれる働きに就く人もいます。ですから私もちょっと厳しく指導をしなければと思っています。日曜日の礼拝には、教会によって「説教」あるいは「メッセージ」という牧師が聖書を開いて話す時間がありますが、どのように説教をするのかということの基本を、学生は身につける必要があります。3学期はその実践をしていますが、先日の授業で、学生の中には面白い話をして皆が笑うと「ウケた」と言って、ウケる話が良い説教、またウケる話をできる人が良い説教者だと思ってしまう傾向が感じられたので、それは間違いであるということについて注意しました。
●確かに聞く側からすると、まじめで堅い話よりも、冗談を交えた楽しい話の方が聴き易いでしょう。しかし説教と漫談とは、違うのです。ヤコブの手紙に次のようなことばがあります。
◆すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(ヤコブの手紙1:21 )
そうなのです。漫談は、笑いを誘うことによって人の心を解放しますが、人の心を変えることができません。しかし牧師の説教は、聴く人の心の中に、いのちの種である聖書のことばを植えつける働きなのです。人の心の中に聖書のことばがとどまるなら、そのみことばが、人の心を変え、生活を変え、人生を変えるのです。ですから極端な言い方をするならば、牧師が聖書のある箇所を読んだ後に、「皆さん、ここに書かれていることが分かりましたか?」と訊いて、皆が「はい」と本当に返事ができるなら、牧師はそれ以上のことを話さなくてもよいほどなのです。あるいは、そのことばを理解できるまで、何度も一緒に読んでもいいかもしれません。しかし実際は、皆が同じ程度に理解するということは難しいので、そのみことばを理解しやすく解き明かして、聞く人の心に届くように話そうと牧師は苦労しているのです。それが説教の意味です。
●同様にクリスチャンの目標は、道徳的に良い人間になることを目指すのではありません。自分が聞いたり読んだりして出会った聖書のことばを心の中に蓄え、それを自分への神の約束と信じて生きることなのです。聖書のみことばを、神のことばと信じて、実行するならば、神がその約束をその人の心の中に、また人生に実現させてくださるのです。
●イギリスの説教家であるスポルジョンは、「農夫が、種を蒔いて収穫を待つのは、信仰である。」と語っています。農夫は、やがて素晴らしい作物が実ることを信じ期待して、畑を耕し、その作物の種を蒔きます。自分の願いが、祈りによって実現するためは、神が約束された「みことばの種」が心の中にあることが必要です。聖書のことばであるならば何でもいいというのではなく、その願いを実現する神の約束の種があるのです。種も蒔かず、生えることを信じず、水をやらず、雑草も取らずにいて、作物が実ることはありません。自分が信じていないことが、実現することはないのです。でも私たちは、信じて長い間祈ってもなかなか実現しない時に、ふと心の中に「これは、神様のみこころでないかもしれない」と思うことがあります。しかし聖書の中にその願いを実現するという「みことば」の種があるならば、それは確かに神のみこころなのです。人が救われること、病気が癒されること、経済的に守られることなど、これらは神のみこころです。
●もし自分の願いの実現をみことばが約束しているならば、私たちはそれによって平安を持つことができます。どんなに遅れても、それは実現することを神は約束しているからです。ところでコロサイ人への手紙に不思議なことばがあります。
◆キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ・・・(コロサイ3:16)
家の中にいる人や動物は、「住む」といいますが、同じ家の中にある机や椅子を、「住まわせている」とはいいません。ではことばは、心の中に住むものなのでしょうか。人や動物と机や椅子の違いは、いのちを持っているかどうかです。ヨハネの福音書で、イエスは次のように語っておられます。
◆わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネの福音書6:63)
神が人に与えることばには、いのちがあります。ですから神のことばが、人の心の中に住むことによって、その人の性質を変え、生き方を変えていくのです。
●このように聖書の「みことば」は、人の心の中で成長していき、力を持って働き出します。しかし種にいのちがあっても、蒔かれる土地、すなわち人の心の状態がそれに適していなければなりません。イエスは、このことをマタイの福音書13章で、「種蒔きのたとえ」として語られました。ここには、4つの状態の土地である心について書かれています。
最初の心は、「みことば」が神の約束であることを信じないで、軽く扱ってしまったために、結局神がその人に実現しようとされた約束を得ることはありませんでした。
2つ目の心は、利己心とかプライドといわれる岩のような硬い心を持っている人の状態でした。しかし草がアスファルトを破って芽を出すように、みことばは硬い心も砕く力を持っています。ただ自分の心が砕かれることを許すならば、そのような心にも神は働くことができるのですが、拒否したためにそこで神は働かれませんでした。自分の考えや生き方を変えるということは、ある種の痛みを体験することででもあるのです。
3つ目の心は、神がなさる働きに期待をするのではなく、自分で何かしようと忙しく立ち働く人の心の状態です。私たちは、確かに「みことば」が実現するためには、私たちも行動をしなければならないこともありますが、神の働きが優先することを忘れてはなりません。神が働かれることを優先にしない人は、自分が望んでいる時に、また自分が望んでいる方法で実現することを求めるために、結局は混乱してしまうのです。
最後に取り上げる神が望んでおられる心は、「みことばを聞いてそれを悟る人(マタイ13:23)」です。つまり神がなさることを辛抱強く信仰をもって期待している者は、三十倍以上の結果を得ることになります。これは驚くべき増加です。しかしこのことが実現するのは、砕かれた良い地である心の中に、信仰を持って神のみことばの種を蒔くことから始まります。