| 2006年 4月 2日(日) |
主の恵みの中での成長/14 キリストの上に置かれた「いばら」と「つば」
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【礼拝メッセージ要約】
●キリスト教会のこの時期は、1年の間で一番大切な時です。それは、約2000年前にイエス・キリストが十字架にかかって死に、復活された時だからです。キリストの死と復活に、人間の救いの全てがあります。今年の《復活祭》は4月16日(日)で、キリスト教のあるグループの人たちは、復活祭前の日曜日を除く40日間を《レント(受難節)》として、キリストの受難を思い、断食と祈りをもって過ごします。このことはとても重要ですが、イエス様の受けられた受難は、肉体を裂かれる鞭打ちと十字架に磔にされるという私たちが体験することがない痛みをともなうものでしたが、それでもイエス様の苦しみはそれ以上のもので、父なる神から永久に断絶されること、つまり「永遠」に存在する「地獄」に全ての人間の身代わりとして行かなければならないという恐怖の苦しみであったのです。この点になると、私たちが想像できない苦しみです。それは断食によって理解されることではありません。ですから私たちのこの時期の過ごし方は、地獄の恐ろしさについて考えてみるだけでなく、キリストの死と復活を通してクリスチャンに与えられた祝福を考え、キリストの深い愛を思うと時としましょう。
●そこで今週は、イエス様の身代わりの死は、私たち人間の何を身に受けて十字架につけられたのかについて考えてみましょう。
マタイの福音書27:21〜31には、イエス様が鞭打たれた後、ローマ兵たちによって「いばらの冠」をかぶせられ、「つば」をかけられたことが書かれています。これは何気ない記述ですが、私たち人間が生まれつきに持ってきた罪の性質に含まれているものを描いています。
●まず「いばら」ですが、これは人間の「罪の性質」から生じる「のろい」を示しています。
創世記には、初めの人間が神の言いつけに逆らって、その結果自分の中に「罪の性質」を持ち込んだ時、自分の生活は勿論、地球環境も「いばら」を生じるようになったと書かれています。「いばら」は、人がいかに努力しても、良い結果を得ることが出来ないのろいを示しています。パウロは、ローマ人への手紙7章で、「私には、自分のしていることがわかりません。・・・私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。(7:15、18)」と語っています。善をしたいのに行うことが出来ないというのは、人間の罪の性質にあるのろいです。また『ザ・クロス』の著者マックス・ルケードも、「ぼくたちは、悪い行いをやめることができない」と言っています。つまり人間の誰もが持っている「罪の性質」は、
a 自分自身に不幸をもたらす。
b 努力をしてもそれに伴う実りをもたらさない。
c 何が善で何が悪であるのかすらも判断できない。
d 悪をやめ、善を実行したいと思っても出来ない。
等の問題を生じさせるのです。このように、私たち人間の中にある「罪の性質」は、私たちの人生に「のろい」をもたらし、その結果生きること自体が苦しみとなっているのです。
●ところがローマ兵は、そのことを知らずに、イエス様に「いばらの冠」をかぶせました。つまり父なる神は、御子イエスの上に、いばらに象徴される私たちの罪の性質である「のろい」を置かれたのです。そしてイエス様が死ぬことによって、私たち人間の「のろい」からの解放をなされたのです。ですからイエス様が十字架の上で死なれた時に、自分も共に死んだことを信仰を持って受け入れるならば、私たちは、自分の内にある「罪の性質」によって、自分自身を苦しめる「のろい」から解放されます。
●次にローマ兵は、イエス様に「つば」をかけました。つばをかけるという行為は、相手を侮辱する行為であり、肉体を傷つけることはありませんが、相手の心を傷つける行為です。つまり人間が持っている「罪の性質」から生じる「のろい」を他の人に与えることです。このように「罪の性質」は、自分の生活や人生をのろうばかりでなく、他の人の生活や人生ものろいます。しかし父なる神は、この「のろい」も御子イエスの上に置かれ、十字架にかけてそれらを死に渡しました。
●イエス様は、十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」と祈られました。確かにローマ兵は、自分たちで何をしているか分からずに、イエス様の上に「いばら冠」を置き、また「つば」かけました。ローマ兵の行為は、私たち人間の代表として、私たち人間が共通に持っている思いと行為であり、父なる神はそうされることを許されたのです。ローマ兵も私たちも、そこに神の赦しの計画があることを知りませんでした。しかしイエス様は、私たちが自分自身と他の人を傷つける「のろい」から解放されることを、父なる神に祈ってとりなしをなされました。ですからそのことを信じ受け入れる人は、神から「のろい」の赦しと解放を受け取ることが出来るのです。
ではあなたの隣りの人に手を置いて、次のように祈りましょう。
「主イエス・キリストの御名によって、罪ののろいを断ち切り、キリストの十字架のみわざによって、○○さんの生活と人生を祝福します。」
あなたは今から、自分を縛っている「のろい」から解放され、また他の人を祝福することが出来るのです。