| 2006年 5月 22日(月) |
ダ・ヴィンチ・コード
●NHKのニュースによると、ローマ・カトリックの教皇ベネディクト十六世は、今世界中で一斉上映されている映画『ダ・ヴィンチ・コード』に関するコメントをしなかったということです。私もこれは、知恵ある方法だと思います。話題になっている一つの主張を否定したとしても、それによって最初からキリストを信じていない人々の心を捉えることはできませんし、かえって反対の関心を持たせる宣伝となる可能性があるからです。
●イエス・キリストに関しては、著書・映画・舞台等で、これまでも様々な解釈や主張がなされてきました。今回の著作と映画化もその一つの主張で、その内容について論争をしようとするならば、泥沼に入り込んでしまうことになりかねません。クリスチャンが信じている『聖書』そのものを疑問視したり、その正典性を否定して、他にこれこそが正しい文書であるとするような主張は、これまでの歴史の中でも多くありました。イエスの神性や奇蹟を否定する主張と論議することは、終わりのない“もぐらたたき”ゲームを始めるようなものです。
●もし仮にこの著者が主張するように、イエスが普通の人と同じように妻を持っていたとするならば、当時行動を共にしていた弟子たちには、当然そのことが知られていたことでしょう。そしてイエスのそのような生き方が、信仰のあり方に支障をもたらすものであるならば、弟子たちの多くはイエスのもとを去っていたでしょう。ある人たちが言うように、弟子たちは、復活しなかったイエスの遺体を隠し、またイエスを神に作り上げるために、その主張に合う聖書を書き上げ、彼らの手でキリスト教の教団を作っていったわけではありません。弟子たちの多くは、イエスが十字架に架かった時には、失望し、恐れ、もとの仕事に戻っていたと聖書は語っています。嘘で塗り固めた教理を作って、殉教するまで覚悟をして、新しい教団を作ろうとするような状況ではありませんでした。
●しかし聖書の使徒の働き2章には、イエスが昇天してまもなく、「彼(ペテロ)のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。(使徒の働き2:41)」「しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。(使徒の働き4:4 )」等とありますから、十字架に架かって死んだイエスを信じる信仰には、特別なこと、つまり聖書が語るように「復活」や「昇天」のように、近くにいた人たちが信じることができるイエスが神であったということを証明する出来事があったに違いありません。聖書と異なる文書を持ち込んで、聖書の内容を否定する試みは、じきに人々から忘れ去られるものとなることでしょう。