| 2006年 6月 3日(土) |
「制限」は「自由」?
![]()
●我が家に、メスの黒猫がいます。小さい時から家の中で飼っており、あまり外に出たことはありません。ところが最近になって、外に出たがるようになりました。そこで外に連れ出すと、ちょっとした周囲の物音にもびくびくして、腰を低くして歩きます。歩く様子が“へっぴり腰”なので、外を歩いている時は、家族から「へっぴりちゃん」と呼ばれています。先日も家の前を通った車の音に恐れて、着けていた首輪をはずして逃げ帰ってきました。よほど怖かったのでしょう。そこで今度から彼女を外に出す時には、首に長い紐をつけて、逃げ帰るためのベランダの戸も開けたままにして、遊びに出すことにしました。ある程度の行動の制限範囲を決めて、逃げ帰る場所も用意してから、遊ばせるのです。
●映画『ダ・ヴィンチ・コード 』の登場人物が、「イエスを人間にすることによって、人間は自由になれる」と言う台詞があります。つまりイエスが、神であることは、人は彼の言うことを全て守らなければならないから、クリスチャンであることは不自由な生き方を強いられているのだと言いたいのだろうと思います。勿論、これは登場人物の台詞でありながら、この本の著者のダン・ブラウンの主張でもあります。イエスは、神ではなくただの人間であるということを言いたいために、こじつけのような資料を持ち出して、この本を書いたのでしょう。実際、神を信じることは、不自由な生活に入ることだと思っている人は多いようです。しかしそれは聖書を理解していない人が考えることで、イエス・キリストは、自分は「圧迫されている人を自由にする(ルカの福音書4:18)」ために来たのだと語り、パウロは、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。(ガラテヤ人への手紙5:1)」と語っています。クリスチャンになることは、あれはしてはいけない、これもしてはいけないという堅苦しい世界に足を踏み入れることだと自分で思っているのです。神は、その人を自由にするために、ある制限も用意されます。しかしそれは、私たちを自由にするためであるということは理解できるでしょうか。
●もう一度「へっぴりちゃん」の話に戻ります。彼女に綱をつけず、自由に外に放り出したら、彼女は車が来たらパニックして、どこかの家の隅に逃げ込んで、私たちが呼んでも怯えて、近寄ろうともしないでしょう。(一度、実際に起こりました。私がやっと捕らえると、彼女は恐怖のあまり、私の手を思い切りかじり、私の手はその後腫れ上がったことがありました。)怯えた彼女は、二度と我が家に戻ることはできず、さりとて他の人にもなつくこともできずに、どこかに潜んで、しまいにおなかをすかして死んでしまうかもしれません。このように、神の配慮による「制限」は、私たちを「自由」にするためのものでもあるのです。