2006年 9月 1日(金)

子と向き合う

●今週の日曜日、墓前記念会を終えて教会から帰る途中、稚内市で殺人があったとのニュースをラジオで聞いた。高校生の少年と母親との二人暮らしであった家庭で、その母親が殺されたというのである。少年は二階から下りてくると、金髪の見知らぬ男が逃走していく姿を目撃したと証言をした。しかし私は瞬間、この少年がやったなと感じた。特別理由はない、ただ「金髪の男」という言葉になんとなく不自然さを感じたからだ。その後すぐに、少年は直接でないが、友人に依頼をして自分の母親を殺したことが判明した。
●私は、少年の気持ちを考えようとしたが、考えることはできなかった。それよりむしろ、母親の気持ちを考えて、やりきれない思いになった。母親は、やがて自分に殺意を抱くようになる息子を生み、一生懸命育てていたからだ。母子二人の生活になるまでに、父親とは死別か離婚か分からないが、そこには少なくとも男児が誕生して、養い育ててきた親子の喜びの生活があったであろうということは想像できた。しかし今は、その子が自分に殺意を抱いていると、母親は一度でも思ったことがあったろうか。
●山形県立保険医大の佐竹信次教授は、「『親は子どもと向き合ってほしい』とよく言われるが、『向き合う』ということばは、わかるようでわからない。」という。つまり親が子に対して関心を持たない時に、親子との間で問題が生じることは理解できるが、親が子に過剰に関心を持っても問題が起きるからだ。6月に奈良県で起きた医師の父親を持つ高校生の自宅放火殺人事件は、親が子に対して抱いた過剰な期待から起きている。親が子に対して過剰な関心を持つ時に、「うざい!」として関係者に殺意を抱くであろうことは予想できるが、どのような状態が、過剰であるのかということについては、当事者同士ではなかなか判断できない。親が子に対して持つ関心を、親としては愛情と思っているので、子どもがそれをどれだけの重圧と感じているのかを考える余裕を持てないからだ。そして問題が起きてから、その子にとって重圧だったと気づくのである。
佐竹教授は述べる。親が子に対して「名門」「一流」を期待するのではなく、どのようにして「世の光として輝く」のかを語り合うことこそ、「向き合う」という行為の意義なのではないかと。