2007年 1月 15日(月)

奇蹟1

●以前に、教会の礼拝には何度か出席しており、キリスト教はなんとなく正しいと思うけれども、洗礼を受けるまでには決心が出来ないでいるという方と話し合ったことがあります。その方が言うには、「洗礼の決心がつかないでいるのは、聖書の中に書かれている奇蹟がどうも不合理に思えて・・・・・」と彼は言うのです。私は、「奇蹟は、もともと人間が理解できないことであって、それが起こるんだから素晴らしいと思うよ。もし奇蹟をなさらない神だったら、逆に私は信じないね。だって私が何でも理解出来るとしたら、私は神よりも自分の力を信じるね。」と言いました。その人は、一瞬「えっ?」と言い、「 そうだよな。理解出来なければ信じないというのは、自分が神になることだよな。・・・」と笑いました。
●彼のように奇蹟を理解出来ないし、そのようなことを書いている聖書や神について信じることができないという言葉をよく聞きます。私たちが日常体験しない不思議な出来事であるからこそ奇蹟であって、もし私たちが自分の頭で理解出来るものだけを受け入れようとするならば、神の偉大な力を自分の小さな理解力という中に押し込めようとすることであって、アインシュタインの理論すら理解できない頭ではそれは不可能です。神は、奇蹟を行われるから私は神を信じるという態度が、信仰の出発点といえるでしょう。