2007年 12月 12日(水)

世界の王者

◆「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」(マタイ5:5) これは山上の垂訓の一部で、神が支配される霊的な『神の国』に住む者の祝福の姿を描いています。「柔和な者」ということばについては理解出来そうに思われますが、「地を相続する」とは、どのような状態をいうのでしょうか。現代訳聖書には、この箇所を「神様が、その人たちを世界の王者とさせて下さいます。」と表現しています。「世界の王者」とは、素晴らしいですね。しかしこれを地球征服を企むアニメの世界の悪役や地中海の海岸の別荘で優雅に暮らしている大金持ちという映画の主人公を思うならば、それがここでいう「王者」を意味しているものではありません。
◆聖書のパウロとシラスにこの姿を見ることが出来るでしょう。それはピリピの町で起こりました。彼らは福音を語っていた時、反対者の訴えによって捕えられ、牢に入れられました。しかしその夜、彼らは神に祈りつつ賛美の歌を歌っていたところ大地震が起きました。そのため牢の扉が全部あいてしまったので、囚人たちが逃げたと思った看守は、責任をとって自殺をしようとしましたがパウロに止められました。また次の日、よく調べずに彼らを牢に入れた長官は、自分の失敗を指摘される恐れから、自ら二人の前に出て謝罪をし、二人を町から去らせました。
◆看守も長官も問題が起きるまではパウロとシラスに対して権力を振りかざし、あたかもこの世の王者のようにふるまっていたことでしょう。しかし本当の意味での「王者」は、パウロとシラスでした。彼らにとって、福音を宣べ伝える事によって受けた迫害は、彼らの信仰を弱まらせませんでしたし、牢獄という環境が彼らを霊的に落ち込ませるものでもありませんでした。彼らはまさに神の国に住む「世界の王者」として生活をしていたのです。
◆私たちは、ともすると自分の置かれた環境や出会う問題で、動揺しがちです。特に自分が望んでいない心地よくない状況つまり試練にはなかなか正しい考えや態度をとることが出来ないことがあります。ヒルティ はそれらについて、「どんな幸福な生活にも数多く起こる試練や心労を、堪え難い重荷と考えるか、それとも自分の生活原則を実行し修練するために、神から授けられた機会だと見るかは、ものごとの感じ方として大きな相違である。そして結局、この感じ方ですべてが決まるのである。神が与えて下さった修練の機会だととらえる見方は、もちろん信仰があって初めて出来ることであり、またそれが信仰の最も明らかな利益の一つでもある。」と語っています。
◆「柔和な者」とは、周囲の状況に左右されないで、その場に最もふさわしい反応が出来るように、自分の感情の制御を神の支配にゆだねている人です。そのような人だけが、環境にかかわりなく王者の風格をもって生活出来るのであり、世界はその人のものです。