2007年 3月 18日(日)

十字架と復活/2  辱めを受け砕かれること

【メッセージ要約】

●神の御子イエスは、私たち人類の罪を背負って十字架上で死んだというのは、クリスチャンの信仰の土台ですが、イスラエルでの死刑の方法が、石打の刑であることを考えると、なぜイエスは十字架刑で死ぬことになったのでしょうか。偶然イエスがその時代にいたので、ローマ帝国の死刑の方法である十字架刑が適用されたというのではありません。むしろ全くその逆で、神はイエスを十字架上で死なせるために、歴史の中のまさにこの時を選んで、独り子を地上に送られたのです。イエスが宗教家たちの憎しみによって殺されるならば、石打の刑にされるべきでした。ところが、イエスが十字架にかかるわずか数ヶ月前に、ローマはユダヤ人から自分たちの刑法で死刑執行を行う権限を剥奪し、死刑はローマ法によって執行されるようになりました。ですからイエスは、ローマ法による十字架刑によって死ぬことになったのです。十字架によって死ぬというこの時が神によって用意されていたということは驚くべきことです。

●そのため悪魔は、神の計画であるイエスを十字架にかけずに殺そうと試みましたが実現しませんでした。例えば、悪魔はイエスの誕生時に2歳以下の赤子を殺しました。それに失敗すると今度はイエスを人々によってがけから突き落としました。いよいよ十字架刑が決定した時、悪魔はイエスを鞭打ちの刑で殺そうとしました。普通は処刑される者は、十字架を背負って刑場に連れて行かれ、その場で鞭打たれ、続いて十字架に架けられるのですが、イエスは死ぬかもしれないというところまで鞭打たれました。彼は、鞭打ちによる出血によって失神しかけながら十字架を背負わされて刑場に行きました。悪魔はここで殺したかったのですが、イエスはとうとう十字架に架かりました。それは、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。」(ヨハネ3:14)ということが成就するためでした。

●ではなぜそれほどまでして、十字架に架からなければならなかったのでしょうか。その第一の理由は、前回述べたように、神・悪魔・すべての人々それぞれにメッセージがあり、イエスの姿に示されたメッセージが公にされるために、掲げられなければならなかったからです。
そして第二の理由は、神にのろわれた者として辱めを受けなければならなかったからです。
◆「その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。・・・」(申命記21: 23 )
十字架刑は、ローマの刑罰としては、受刑者に苦しみを与え、その人の魂や人格を全く否定して貶めるための方法でした。ちなみにイスラエルの石打の刑は、最初の石で受刑者に脳震盪を起こして、その後の苦しみを与えないいわばあわれみの刑でした。それに対して、十字架はいやおうなく自己否定を要求されるものでした。
◆「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(ルカ9:23)

●イエスが、兵士たちによっていかに卑しめられたかについて、聖書は次のように語っています。
◆「そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。『ユダヤ人の王さま。ばんざい。』また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。」(マタイ27:28‐30)                
この中で注目すべきことは、イエスがつばき(唾)をかけられたということです。つばきは、人の肉体を傷つけることはありませんが、その人の魂を傷つけることができます。イエスは、その存在を完全に否定され、更に侮辱を受けたのです。よく十字架に架かったイエスの絵を見ますが、その多くは鞭打ちの痕もない白い肌のイエスが、人の頭上はるか高い所に架けられている姿です。それは絵画構成上美しい姿です。しかし十字架刑は、受刑者を卑しめるためのものですから、実際は右上の図のように人の目線よりも少し高い位置に、最大に侮辱する姿として掲げられました。

●さて再びイエスは、私たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と語られます。私たちの罪の性質は、他の人と比較して、少しでも誇れるものを見出し、自我(プライド)を保とうとします。そして他の人々からの賞賛を求めます。しかし主は、「自分を捨て」自我(プライド)捨てなさいと語られます。自分を捨てることは、私たちに不安を抱かせますが、しかしそれは決してマイナスなイメージではなく、素晴らしい約束をしています。
◆「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:8)
つまり私たちは、自分の内にあるちりあくたに等しい自我を捨て去ることによって、復活のキリストにある新しい神の性質を受けるのです。ですから私たちは、イエスが示した全き自己否定を、日々受け入れましょう。