2007年 3月 25日(日)

十字架と復活/3 神への道を開くため

【メッセージ要約】
●これまで、なぜイエスは他の方法ではなく十字架刑で死ぬことになったのかということについて考えてきました。イエスが十字架刑で死ななければならなかった第一の理由は、「高く掲げられて公に示されるため」でした。それによって私たちには、神からの救いの道が示されました。神が世の人々を救うために、御子が身代わりの死を受けたことを公にされたからです。イエスは、神が旧約時代から約束されていた救い主であることを、ヘブル語・ラテン語・ギリシャ語で書かれた十字架上の罪状書きで示され、当時の全世界に伝えられたのです。

●イエスの十字架の第二の理由は、「罪の辱めを受けて砕かれるため」でした。勿論、イエスご自身は砕かれる必要がありませんでしたが、神によって人類の罪を身代わりに負わせられた時、彼は罪を持っている人間が受ける苦しみを体験され、砕かれたのです。
◆ヘブル12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」
しかしイエスは、死で終わったのではなく、復活された後に神の右の座に着かれました。ですから、私たちも信仰によってキリストの死に与るならば、復活にも与ることができるのです。私たちの自我が砕かれて死に渡された分だけ、キリストの復活による新しい命に生きることができるのです。それは、毎日行われる「日々十字架を負う」体験です。

●そこで今日は、十字架刑の第三の理由を考えます。
それは、「神への道を開くため」に十字架に架からなければならなかったということです。イエスは、十字架に架かる前の最後の晩餐で、パンとご自身の体を同一視しています。
◆マタイ26:26「彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』」
特に彼は、ご自身の体が十字架上で裂かれることを暗示されました。実際彼の体は、鞭打ちの刑で裂かれたばかりでなく、十字架上では手足を釘打たれ、最後にわき腹に槍を刺されて裂かれたのです。そしてその出来事と時を同じくして、神殿の聖所と至聖所の間を隔てていた厚い幕が上から下まで真二つに裂けました。一見この2つのことには何の関係もないように思われますが、ヘブル人への手紙には、次のように書かれています。
◆ヘブル10:20 「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」
つまり、「イエスの体」は「聖所と至聖所の間を隔てる幕」であり、彼の体が裂かれた時に、その神殿の幕も裂けて、大祭司以外は決して見ることができなかった至聖所を見ることができるようになったばかりでなく、そこに入ることができるようになったのです。至聖所を見て、入ることができるということは、私たちは全世界を創造された偉大なる神を知り、神との交わりを体験することができるということです。

●しかし私たちが神が臨在される至聖所を体験するためには、イエスの体が十字架上で裂かれた時になされたことを認識しなければなりません。
◆ヨハネ19:34「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。」
神殿の隔ての幕であるイエスの体が裂かれた時、出てきたものは「血」と「水」でした。実は、この2つの信仰をもって受け入れることなしに、私たちは至聖所に入ることすなわち神を知り交わりの体験をすることは出来ません。

●では「血」とは何でしょうか。
◆ヘブル9:22 「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」
私たちが神の御前に出るためには、何よりも私たちが生まれつき神に逆らって生きていたことが罪であったという罪人であることを認め、そのために御子イエスが神へのささげ物となって十字架の上で死んでくださったことを認めなければなりません。神は、イエスの贖いの死によって流された血が私のためであったと信じ受け入れる人の罪を赦し、対立していた関係に和解をもたらし、神との交わりができるようになるのです。

●次の「水」とは何でしょうか。
◆ヨハネ7:38-39 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」
生ける水である聖霊は、私たちを新しいいのちによって新生させ、更にきよめてくださいます。
◆テトス3:5 「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」
今はすべての人に対して、至聖所を隔てる幕は裂かれていますが、その中に入って神を知り交わりを持つためには、聖霊によって新生し、きよめを受け続ける必要があります。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません(ヨハネ4:24)」。 神との交わりは、霊による交わりであり、そこには聖霊の働きが必要なのです。

●私たちは、キリストの「血」によって罪赦され、キリストが送られた聖霊であるいのちの「水」によって神との交わりをすることが出来るのです。イエス・キリストは、私たちが神との交わりをする至聖所に入ることが出来るように、神へのささげ物としてご自身の体を十字架上で裂いてくださいました。
◆ヘブル10:19-22「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。・・・・・そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」