2007年 5月 6日(日)

信仰に生きる*4 人生の実の結び方

【メッセージ要約】

●神はご自身について、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。(マタイ22:32)」と語っています。それは、ここに名前の挙げられた人々が、信仰のゆえに神に受け入れられ愛されたからです。しかし神は、すべての人を愛しておられますから、もし私たちも彼らの信仰にならうならば、彼ら同様私たちに対しても神は「わたしは、あなたの神である」と語ってくださいます。では彼らはどのような信仰を持っていたのでしょうか。簡単に要約するならば、アブラハムの信仰は、神を真の父として信じることであり、イサクの信仰は、父である神は祝福を与える方であることを信じてそれを素直に受け取ることであり、ヤコブの信仰は、人生の目的は神が望んでいることを行うことであり、それを実現するための姿勢を身につけることでした。

●そこでまずアブラハムについてですが、当時偶像を造って拝んでいた多くの人々の中にあって、彼は全世界を創造された「見えない神」である主を求めていました。主は彼のそのような心をご覧になり、彼を選び出して「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。・・・ そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。(創世記12:1-2 )」と彼に語りかけてくださいました。私たちは主を目ではみることができませんが、「信仰」をもって求める者に応えてくださるのです。

●イエスは、人間の姿をとった神として弟子たちの前に姿を現しましたが、「わたしはいつもあなたがたとともにいます。(マタ28:20)」と約束した後、天に上られて弟子たちの前から姿を消しました。それから約2000年が経ち、私たちも目ではイエスを見ることができません。ではイエスの「ともにいます」という約束は無くなったのでしょうか。
こんな話があります。アメリカ原住民は13歳で成人式を迎えますが、その日少年は、大人と認められる者にふさわしいかどうかを確かめるために、彼の勇気が試されます。それは、大人たちに目隠しをされて深い森の中に連れ出され、獰猛なオオカミやクマなどがいる危険な森の中で一夜を過ごすためです。恐れてその場から逃げ出すならば、大人とは認められません。少年は、獣の鳴き声を聞きながら、身の危険を感じる恐怖と戦って一夜を過ごします。やがて夜が明ける頃、少年は朝日の中にあるものを見ます。それは少し離れた場所に、武器を持って隠れている彼の父親です。父親は一晩中、息子に危害が加えられないように守っていたのです。もし彼が事前にそのことを知っていたら、父親の姿が見えなかったとして恐れなかったでしょう。
今日、イエスが語った「あなたがたとともにいます」という言葉は、見ずに信じる「信仰」に根ざすものです。

●アブラハムは、この見えない神が語られることばを信じ、神を真の父と受け入れることによって新しい名前を受けたように、私たちも信仰によって「父なる神の子」という新しい名前を受けるのです。神を自分の父として受け入れることは、父が子を絶対的に愛しているように、神の実際的な守りと祝福を受ける者となるのです。
◆ヨハネ1:13 「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」
      
●次に私たちは、イサクの信仰にならう者でありたいと思います。彼は、アブラハムの子として父の全財産を受けました。彼は、特別立派な人物であったわけではなく、また力強い働きをした人でもありません。ただアブラハムの子であったというだけで父の財産を得ました。それは、神がアブラハムを「あなたの名は祝福となる(創世記12:2)」と約束したので、その約束のゆえに彼も神の祝福の中に置かれたのです。イサクがアブラハムの子としてとどまったように、私たちも父なる神によって生まれた子としてその「信仰」にとどまるならば、父なる神の全財産を得るのです。その祝福は、ただ自分がこの地上にあって豊かな生活ができるというだけでなく、リビングバイブルによると「おまえのおかげで、ほかの多くの者も祝福される」ためなのです。私たちは、他の人に神の祝福を与える者として召されたのです。神は、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して与えようとされたものを素直に受けとる人を喜ばれます。それがイサクの信仰にあるものです。

●ではヤコブの信仰にどのようにならうことができるでしょうか。兄のエサウは猟師で、羊飼いであったヤコブとは異なって、神にあまり頼らずとも自分の力で人生を切り開くことができると考えていましたが、ヤコブは、神が祝福の源であることを知っていましたから、神の約束である「長子の権利」をエサウのように軽いものとは考えていませんでした。しかしヤコブの信仰姿勢は、イサクが父であるアブラハムに従順であった姿とは異なり、己の願望のために他の人と争い、だまし、また神から祝福を奪い取ろうとする自我が強い姿勢でした。ですから彼に対する神の訓練は、このような彼の姿勢を変えることでした。ヤコブは、彼の人間的な力の源であったもものつがいを打たれた時から、神が望んでいる方法を学んでいきました。

●神の祝福は、一人ひとりの人生に「実」を生らせることです。「実」は、見て楽しむだけでなく、他の人に味わってもらうものです。「ほかの多くの者も祝福される」ための器として、神はアブラハム、イサク、ヤコブを用いました。ですから私たちも、私たちの人生に実を実らせることを求めましょう。その「実」とは、イエス・キリストを信じて新しくされた神の性質である「御霊の実」です。
◆ガラテヤ5:22-23「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
これらの御霊の実を身につけた人の働きだけが、神の祝福を他の人に持ち運ぶことができるのです。初期のヤコブのように、自分の力や方策によってできるものではありません。なぜなら神の働きは、神に栄光が帰されるものだからです。ヤコブがもものつがいを外されたように、自分が誇りとする力が砕かれて、全く神に頼る必要を覚えた時に、その働きがなされるのです。
◆ヨハネ15:1、5 「 わたし(キリスト)はまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。・・・わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
イエスがご自身の願望によってではなく、父なる神のみこころだけを行ったように、私たちも「キリストの中にとどまる」ことによって、人生において本当に価値あることができるようになるのです。「わたし(キリスト)を離れては、あなたがたは何もすることができない」とは、私たちが働けないということではなく、神の性質(御霊の実)から生まれる働きでなければ、価値がないということです。キリストにとどまることによって、御霊の実と働く力である賜物がその人の中に生まれるのです。聖餐式のキリストの体をあらわすパンを食べ、十字架で流された血潮である血を飲むことは、そのキリストにとどまることを意識させる事柄です。私たちが神のみこころを行うことによって、私たちの心の中には喜びが起こってきます。そのような時こそ、「他の人を押しのける」という生まれつきの性質を示す「ヤコブ」という名前から、「神と共に支配する」という意味の「イスラエル」という新しい名前に変えられていることを知ります。