2007年 7月 19日(木)

愛の風? 恨みの風?

●先日、『千の風になって』の訳詞と曲が、北海道の駒ケ岳を望む山荘で作られたという新聞記事をある人からいただいた。なんとこの曲のCDは、94万枚の売り上げがあったという。以前にこの日記で、この詞はなにか変だというような感想を書いた。今もそう思うが、更にこれだけ売れたということを知って更に怖いなとも思う。勿論、新聞記事になった訳詞者に対する感想ではない。この思想の背景には、世界を創造された神などはない。人間が、もとからあった自然の中に生きており、肉体が死んでも自然の一部として存在できるというニューエイジ的な発想に心慰められる人がこれほど多いということに驚きと怖さを感じるのである。勿論、私はキリスト教的発想から考えるから、このように感じるのかも知れないが、人は死んだらどこに行くのか?という人間の歴史が始まった時から持っていた問いに対する一つの回答である。人間の生き方には善も悪もなく、自然の一部に消化されてしまうのさというこの考えに、日本人の少なくとも94万人が、賛同し心慰められているという感性に驚くのだ。確かに今は亡き愛する人が、優しい風になって、いつでもそばに吹いてくるというイメージは、美しく愛を感じることだろう。でも亡くなった人が、風になることができるなら、憎しみ・恨み・のろいの思いを持った今は亡き人も、「千の風になって」吹いてくることだってあるはずだ・・・・と言うならば、94万人に私は非難されるかもしれない。しかし人間は、愛や慈しみの感情と同じくらい憎しみや恨みの感情の中で苦しみながら生きているのではないだろうか。私は他人に恨まれる覚えはないと誰でも考えるが、憎しみの感情は、相手が自覚するかどうかと関係なく、日常的に起こるものだ。窓から入ってくる風を感じて、「この風は、愛情の風か?、恨みの風か?」と考えたら、私だったらおちおちしていられない。やっぱりなにか変な詞であるし、それに多くの人たちが乗っているというのも変な感じだ。