2007年 8月 9日(木)

お経と救い

●先ほど知り合いの方のお母様が亡くなられたということで、葬儀に参列してきた。本人は、入院中に病床洗礼を受けたが、遺族の意思で、葬儀は仏式で行われた。式が始まり、僧侶の読経が続いた。耳を澄ませて、お経の意味を理解しようとしたが、日本語としては一語も分からない。それは、漢文で書かれた経文を、いわば音読みしているので、勿論日本語として分からないのが当たり前である。
●ではお経は何かということについて、日本の多くの仏教は、本来の意味に反れて用いていることを指摘する仏教関係者もいる。つまりお経は、仏(悟りを得た者)になるための道筋や心得を述べているもので、生きている者が、やがて仏となるために経文の教えを理解し、それを目標にした生き方をするためにある。ところが、日本の仏教は、葬式に参列している生きている者たちには一切理解できない状態で経文が語られ、むしろ僧侶は死人に向かってその経文を語っている。僧侶であっても、多くの経文を、多くの時間をかけて学び、やっと理解するのだと思われるが、死者は葬式で経文が語られて、すぐに理解し悟りを得ることができるのだろうか。それではすぐには、成仏できない。もっともこの度の故人は、病床で「死んだらイエス様の所に行きたい」と告白して洗礼を受けたということであるから、故人は今、イエス様のもとにおり、僧侶によって読経された内容を全く理解できないとしても、なんら問題はない。
●私はこれまで、仏式の葬儀に参列したことは何度もあるが、僧侶の口からは、「人生はむなしい」とか「やがて誰にも死は訪れる」と語られることはあったが、「○○さんは、確かに成仏しました」とか、「○○さんは、今、極楽にいます」というはっきりした言葉を聞いたことはない。キリスト教界でも、人は死後においても救いの機会はあるかという《セカンドチャンス》について論争されることがある。死後にも救いがあったら幸いではあるが、それよりも、今生きている者がお経を理解して成仏する準備をすることが大切であると心ある仏教関係者が語るように、クリスチャンは、救いを死後に期待するのではなく、今生きている間に受けるようにと心すべきである。
◆ローマ10:9「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」