| 2008年 5月 6日(火) |
神の召命は変わらないか?
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●上のタイトルを読んで、あなたの答えは何ですか?
普通に聖書を読んでいる人ならば、新約聖書のローマ人への手紙の個所「神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:29 )」を思い出して、「その通りです。変わりません。」と答えるでしょう。でもこの質問は、簡単であるように見えて、難しい問題を含んでいますし、また難しそうに見えて、答えは簡単ともいえるのです。難しくもあり簡単でもあるというのはどのような意味なのかというと、「神の召命」ということばをどのように理解しているのかを明らかにするならば、答えは易しいということです。しかしそのことをしないで答えると、考えが混乱します。
●クリスチャンが「神の召命」ということばを普通に聞くならば、自分が信徒として、あるいは特別な働き手として神のために働くことと受け取るでしょう。その意味で、ローマ11:29 のみことばから、「神の召命は変わりません」と言うならば間違いです。というのは、このローマ人への手紙の11章は、「神の賜物と召命」ということばを、このような意味では用いていないからです。この手紙を書いたパウロがここで用いた「神の賜物と召命」ということばの内容は、神がイエス・キリストによって世界中の人々を救うために、ユダヤ民族を選び出したことと、ユダヤ人もやがて救われるという神の計画は変わらないということです。
●厄介なことにこの内容は、ローマ人への手紙の11章を普通に読むと無理なく理解できるのですが、どういうわけか、このことばだけを取り出して、クリスチャン一般の働きと受け取る人が、結構多く、しかも信仰的に長い経歴を持っている人の中にもそのように思い込んでいる人がいるのです。あるクリスチャンが、例えば、自分の賜物が「預言」だと思い込んでいる場合、ローマ11:29 のみことばをもって、神がそれを変わらないものとして保証してくださっているのだと考えるならば、その人の不幸が始ります。なぜならば、前述のようにこのみことばは、それを保証していないからです。しかも自分が思い込んでいる「預言」の賜物は、本当に神が与えたものなのかということの保証もないので、更に不幸が深まります。仮に、聖書学校や神学校という教育機関を卒業しても、あるいは有名な指導者が指摘したとしても、神が個人に与える賜物を確実に保証するものではありません。
●結論として、神が、クリスチャン個人に与える賜物は変わらないと保証しているみことばはありませんし、また教育機関や指導者が変わらないと保証出来るものでもありません。しかしそうであったとしても、もしあなたの賜物が神から与えられたものであるならば、神はやがてその賜物を生かす働きの場にあなたを召し出すでしょう。そして自分が召された場にいる人々も、あなたの働きを見てあなたの中にある賜物が神から与えられたものだということを自然に認めるようになるでしょう。ですから現在自分の賜物が用いられていないと嘆く時は、もしかしたらそれがあなたの錯覚であるか、その賜物が神に用いられるために純粋なものとなるように、自我を砕く期間としてその働きが止められているのです。あせる必要はありません。時が来れば、あなたが嫌でも神は引き出します。