2008年 6月 10日(火)

ビミョ〜論/1

●最近、若い人の会話の中で、「ビミョ〜」という言葉を耳にすることがあります。漢字の「微妙」です。特に最後を“微妙〜”に伸ばして言うとその感じがよく出ます。相手に対して断定せずに、しかも間接的に断りの意思を伝えたいという時に用いるようで、私は必ずしも嫌いな表現ではありません。ちょっと茶目気があり、かわいらしい感じがしないわけでもありません。
しかし私がこれから書く「微妙」は、十分注意した方がいいと思われる事柄です。例えば、AとBがあって、両者は似ているようでありながら、実際は違うのですが、その違いはほんの少しつまり「微妙」なのです。ところが、Aを選ぶかBを選ぶかの違いは、その先に行ってみてはじめて大きな違いであることに気づくという事柄です。

●最初に取り上げるのは、K師の著書『聖書的セカンドチャンス論』です。これは「キリストを知らずに死んだ魂が、死後の世界で福音を聞いて回心し、救われる機会ははたして与えられるか?」という問題について書かれています。結論は、死後にも救いの機会はあるということですが、全ての世界人類が救われるというイメージよりも、キリストへの信仰告白をせずに逝ってしまった親や兄弟、子、親せき、知人、友人等は、はたして「天国」に行ったのだろうか、あるいは行けるのだろうかという身近な人たちへの思いに対する回答というものでしょう。
私も、生前に福音に接する機会がなくて亡くなった人のすべてが、キリストを信じ受け入れていないということで、地獄に落とされとは考えていません。神は、亡くなった人の心をご覧になって、その中から救う人もいるだろうと思っていますが、この『聖書的セカンドチャンス論』は、次の部分に関する考えが、“ビミョー”なのです。それは「キリストを知らずに死んだ人」は、一時「陰府(ハデス)」という死者の世界に置かれますが、そこにいる間に福音を聞く機会が与えられ、そこで信じ受け入れた人は救われるという「セカンドチャンス」が与えられるというのです。ではどのようにして福音を聞く機会が与えられるのでしょうか。その機会は、死んですぐにあるというのではなく、ヨハネ黙示録11章に示されている「患難時代」に登場する「ふたりの証人」によってなされるというのです。K師の説明のその部分を書いてみましょう。
「彼ら(ふたりの証人)は死んでいる『三日半』の間、一体どこに行くのでしょうか。聖書はそれを記していません。・・・彼らは死んでいる三日半の間、陰府に下るでしょう。そして、かつてキリストが陰府で死者たちに福音を語られたように、彼らも陰府で死者たちに福音を語るに違いありません。・・・陰府には、かつて生きていたあいだに福音を一度も聞いたことのない人々もいます。そうした人々も、陰府でこの二人の預言者から福音を聞き、回心の機会を与えられるでしょう。」
つまり“ビミョー”なところは「聖書はそれを記していません。」と書いていながら、次に彼らは「陰府に下るでしょう。」と仮定し、更に「福音を語るに違いありません。」と論を進めていることです。確かに亡くなった親しい人に福音が語られるチャンスがあると書かれるならば読む人に大きな励ましを与えることになりますが、聖書が記していない事柄をもって励ますことは危険です。なぜならそれは、神が約束した事柄ではないからです。