2008年 7月 6日(日)

危機に備える信仰(27)  キリストを信じる機会がなく死んだ人

【メッセージの要約】
●イエス・キリストを信じ受け入れていない人が死んだ時、その人は陰府(ハデス)に行くことになりますが、そこは地獄ではありません。地獄は、その後に決まる最終的な所ですから、その人はまだ最終的な滅びに定められてはいません。だとしたらもし陰府にいる間にそこにいる人に救いが与えられる機会があるとするならば、特に自分の愛する人が陰府に行ったのではないかと思っている人にとっては、大きな慰めになるでしょう。先週扱ったK師の『聖書的セカンドチャンス論』は、その疑問に答えようとしたものですが、しかし残念ながら、聖書のみことばを用いてはいますが、十分に説明されていない論であるということを、例を挙げて説明をしました。でもこれだけですと、ただの批判だけに終わってしまうので、キリストを知らずに死んだ人に救いの機会があるかということについて、聖書はどこまで語っているのかということについて調べてみましょう。

●この説明に入る前に、まず『セカンド・・・論』の全体を要約して、中心となる問題点を明らかにしてから、聖書はどのように語っているかを見てみましょう。この論が取り上げている人の救いの基本は、使徒の働き4章12節です。「この方(イエス・キリスト)以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」。これは正しいと思います。しかしこのみことばを根拠にするならば、陰府にいる人が救われるためには、その人が「福音」に接する必要があります。でもその人はすでに亡くなっていますから、生きている私たちが福音を伝えることはできません。そこでその可能性としてK師は、次の2つの方法を挙げています。1つは、「生前に聞いた福音を思い出す」ことであり、もう1つは「福音が、陰府に伝えられる機会がある」ことです。そこで生前に聞いた福音を思い出すことの例として、ルカ16章の「陰府に行った金持ち」を挙げ、「あの金持ちが陰府で長い苦しみの後に回心し、最後の審判の座で義と認められ、最終的に新天新地(神の国)に迎え入れられるとしても、決して不思議なことではありません。」と説明しています。しかし「・・・決して不思議なことではありません」ということが、聖書にそのように書いてあるということと違います。確かに金持ちは、悔いることばを語っていますが、主がそのことを受け入れてくださったかどうかについてまでは、聖書は述べていません。

●また「福音が、陰府に伝えられる機会がある」ことに関して、その働きをするのは、黙示録11章のやがて患難時代にエルサレムに登場する二人の預言者たちであろうとしています。「・・・彼らはこの死んでいる三日半の間、一体どこに行くのでしょうか。聖書は、それを記していません。・・・彼らは死んでいる三日半の間、陰府に下るでしょう。そして、かつてキリストが陰府で死者たちに福音を語られたように、彼らも陰府で死者たちに福音を語るに違いありません。・・・」と説明しています。しかしこれも「・・・でしょう。」「・・・違いありません。」という表現で、「聖書は、それを記していません。」と自ら認めています。聖書にその通りの語や文で書かれていなくても、想像を広げてみることは聖書解釈上許されることもありますが、人が救われるか滅びるかを決定することについては、想像的解釈には慎重になるべきです。

●では人が死後に救われる可能性について、聖書はどこまで書いているのでしょうか。残念ながらほとんどありません。特に、救いのために必要なものを、生前に受けなかったが陰府(ハデス)で受けるという事柄についてはありません。しかし陰府にいた人たちが、最終的に彼らの行き先を決定されるいわゆる“最後の審判”の場面は、黙示録に次のように書かれています。
◆黙示録20:12-15 「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」
「火の池」または「第二の死」というのが「地獄」を意味します。陰府(ハデス)から出された人は、おのおの自分の行ないに応じてさばかれた」とありますが、さばきの結果救われる人がいるかどうかについては、見解の違いがあります。つまりここにいる人たちは皆地獄に行くことになるが、個々人によって受けるさばきの厳しさに違いがあるのだという考えと、なんらかの「救い」の機会を見出す考えです。

●もともと陰府(ハデス)に行くことになった人々は、キリストへの信仰を受け入れなかったか、知らなかった人々で、キリストへの信仰によって救われるという機会を逃した人達ですから、『セカンド・・・論』のように、死後に信仰を持つ機会が与えられなければ、ここにいる人たちは皆地獄に行くという説明も成り立ちます。ところがマタイ25章には、イエス・キリストが再臨される時に、まだ地上で生きている「すべての国々の民」を「羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け」ると語られています。この「より分ける」ことは、救われるか滅びるか、天国に入るか地獄に行くか、を意味しているようですが、それを分ける基準は、「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、・・・(マタイ25:35 )」と、彼らがいかに愛の行為を行なったのかということです。またローマ2:14-15には、「 ――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、…」とあります。つまり人の外に現れた行ないは、内にある信仰あるいは心の表現であるという見方からするならば、創造主である神がすべての人に望んでおられる基準は、人の心(良心)の中に書かれているので、キリストの再臨の時に地上に生きている人々が、救いか滅びかに分けられたように、陰府(ハデス)にいた人々へのさばきも同じようになされるはずです。

●イエス・キリストへの信仰を受け入れた人は、死後、キリストのみもとに迎えられるということを私たちは信じますが、次のような人々はどのようになるのか、聖書は明らかにしていません。
・生まれずに亡くなった子(胎児) ・福音を理解できない年齢の幼い子ども ・福音を理解できない知的障害を持った人 ・福音を聞く機会がなかった人 ・クリスチャンから正しく福音を教えられなかった人 ・クリスチャンという人に傷つけられてキリストを受け入れなかった人 ・熱心な異教の教えの中に育てられた人 ・死について深く考えずにいた時に、急な事故や病気で亡くなった人 ・他人から加えられた苦しみのゆえに自殺をした人 ・神について知りながら、イエスをキリストと認めないユダヤ人
すでに亡くなった私たちの愛する人について、生前イエスを主と信じ告白した姿を確かめることができなかった時、私たちの心は痛み、悲しみにとらえられます。そのような時、「いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20:15)」という一見厳しい記述に、最後の審判で陰府(ハデス)から出された人たちの中にも救われる人がいるのではないかという望みを抱きます。それは、「おのおの自分の行ないに応じてさばかれた」とあるように、主はここにいる人たちを十把一絡げで扱われるのではなく、個々の違いを認めたという記述に続いて、「いのちの書に名のしるされていない者はみな」という表現を見るからです。いのちの書にいつ名前が書かれるのか分かりませんが、主は人々を個人毎に取り扱われるという文の流れの中で、「いのちの書に名のしるされていない者はみな、」という表現されており、もし全員が滅びの人であったのなら、「みな、いのちの書に名がしるされていないので、」という表現になるのではないかと思うからです。死んだ幼子は天国に入るだろうと多くの人が信じるのは、イエス・キリストに対する信仰と告白、あるいは行ないによって救われると考えているのではなく、それは主の主権にある憐みの領域の事柄であると考えるからです。同様に陰府にいた人たち一人ひとりに対しても、生前のその人の心と心の表現としての行ないに応じて、主は憐みの取り扱いをなされると信じます。