| 2009年 8月 9日(日) |
イザヤ書・人生における私の神/20 お盆と十字架
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【メッセージ要約】
●「お盆と十字架」とは妙なタイトルですが、夏のこの時期、日本中の多くの人々が「お盆休み」をとって、家族や親族に会いに行き、またお墓参りなどをして亡くなった人を偲ぶ時を持ちます。このようにお盆の行事は、家族親族の絆を強める時にはなっていますが、その内容は、一般に考えられているように先祖の霊があの世から来るのでしょうか、またあの世とはどこなのでしょうか。それらのことと人が求める救いとは、どのように関連しているのか考えてみたいと思います。
●「お盆」の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」です。これは、インドから伝えられた仏教の教えが、中国で「盂蘭盆経」というお経に書かれ、それが日本で年中行事になったものです。「盂蘭盆」という言葉のもとになったインドの古語「ウランバナ」とは、人間が逆さにつり下げられた時の苦しみという意味です。仏教の教えでは、人は永遠に存在し、様々な6つの世界の間に生まれまた死ぬということを繰り返します。「盂蘭盆経」に書かれているのは、その中の1つの世界である「餓鬼道(世界)」にあった出来事で、その世界に生まれ変わった者は「餓鬼」という生き物となり、水や食物を口のそばに持っていっても突然火に変わるため、飲んだり食べたりすることができず飢えと渇きが続く「ウランバナ」の苦しみを受けた者の様子を描いています。
●このお経によると、釈迦の弟子である目連が、自分の母親が死後に「餓鬼」となっていることを知って、その苦しみから解放するために釈迦に助けを求めましたた。そこで釈迦が目連に教えた方法は、その時期インドでは、釈迦の弟子たちが約100日間の断食を含めた修行を行っており、ちょうどその修行が終わる時だったので、彼らにご馳走を施して僧侶を大切にするならば、その功徳によって彼の母親にもその施しが及ぶだろうということでした。喜んだ目連は、早速そのようにしたところ、彼の母親にも届いて、食物を口にすることができたというのです。そこでお盆には、仏壇とは別に「施餓鬼棚」を設けて供物を捧げ、故人を接待するのです。
●そこで気になるのは、「お盆」が盂蘭盆経の教えをもとにしている行事であるならば、お盆行事を行うことは、先祖を「餓鬼道」から迎えることを認めていることであり、また「施餓鬼棚」を設けることは、やはりそのことを信じて行動していることになります。先祖の霊を迎えて接待することは、お盆の期間は、先祖を「ウランバナ」の苦しみから解放することになるのかもしれませんが、その期間が終わると再び餓鬼道の苦しみの中に送り出すことになります。人は、信じていることが自分の願っていることであり、行動することは更に強く信じている内容を表現するものです。ですからそれを行っている人もやがて死ぬならば、餓鬼道に行く事を信じているのでしょうか。
●仏教の教えでは前述したように、人は6つの世界を輪廻転生するとされています。すなわち人間の世界である「人道」、天人が住む「天道」、互いに憎しみ合う生き物がいる「修羅道」、様々な苦しみの中で過ごす「地獄道」、虫や獣のような生き物となる「畜生道」、そして厳しい飢えと渇きの中に置かれる「餓鬼道」です。この6つの「道(世界)」の間には、期間の長さの違いはありますが、定められた期間を過ごすと死んで再び6つのどこかの世界に生まれ変わります。このように輪廻転生を永遠に繰り返すとされています。その6つのどの世界にも苦しみはありますが、もしこの輪廻から解脱するならば、その人は仏の世界で成仏します。
●このような考えに対して聖書は、次のように語っています。
◆へブル9:27 ・・・一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている・・・。
つまり人は、一度だけ死ぬのであって、様々な世界に生き変わるのではありません。ですから「救い」も一度だけです。聖書が示す人間が不幸になることの原因は、様々な世界に生まれ変わることではなく、世界や人間を創造した神と正しい関係にないからです。そのような時に、人は不安を覚え、満足することが出来ず、また死への恐怖を覚えます。神との良い関係が得られないのは、人間が生まれつきに持っている神を信じ受け入れない心「罪の性質」を持っているからです。これは性質ですから、人間が自分の努力で出来ることではありません。必要なのは、創造主である神によって新しい人に造り変えられることです。それによって神との正しい関係が成立しますが、それが「救い」です。
●神が計画された人間を新しく造り変える方法は、罪の性質を持っていない人間と一つなりに、共に死んで共に新しい人に復活することを、「信仰」によって受け入れることです。罪の性質を持っていない人間はいませんから、神は神ご自身を人間としてこの地上に誕生させてくださいました。それがイエス・キリストです。キリストは、「罪の性質」を持っている私たちのために十字架にかかって死んでくださり、葬られましたが、父なる神は彼を復活させました。
◆イザヤ53:4-5 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
この事実を信じ、自分もキリストと一体となって死に、そして復活したと「信仰」によって信じ受け入れる人は、神によって新しく造り変えられるのです。