| 2004年 1月 21日(水) |
「愛の今昔物語」
「愛」このフレーズは人類にとって永久不滅の「言葉」ですよね。
例えば映画で言うならば、「愛の嵐」「愛情物語」これも調べたらきりがありませんでした。
小説もこの類は山盛り、時に大安売りだったりして。
ところがこの「愛」という1文字で、人はいっきに地獄を味わったり、歓喜の渦にはまったり
さまざまですが、なぜか生まれて間もない赤ちゃんに親の愛を伝えたくてもはて、確認作業が
出来るのでしょうか。嬉しそうに微笑む無邪気な笑顔、そして寝顔でなど、母子の愛は伝わり
易いことでしょうきっと。ところが父親となるとお乳が出るわけでもなくいくら世話しても
どこまでと不安になることがあるはずなんですって。
だからこそ「愛」と言うこの一文字を人は永久に求めようとするのかもしれません。
私が思うに「愛」と言うのは伝える側と感じ取る側が合致した時に生まれるのであって
赤ちゃんの時から当たり前のようにあるわけではないのですよね。
ということは、この一文字を人は自分が自ら育てることによって感じ取り、与えられる
ものなのではないでしょうか、眼に見えないものだからこそ不安になり、逆に見えないからこそ
心の拠りどころになるのではないかしら。
しかしここにひとつの疑問点がのこるのです。
それは、「愛」とは、対峙している人の世話をして、面倒を見てと言う行為では伝わり
難いものでもあるということです。
義務のように子どもの世話をやいて、面倒を見ているからと言って双方に「愛」と
言う互いの心を癒して、勇気を与えて、肥やしになる「愛」という感情に
さて繋がるのでしょうか。勿論夫婦の関係でも。
世話をやくことと、面倒を見ること愛し合うと言うことは違うのではないかな。
難しいからこそ人はこの一文字に心奪われ、呪文のように「愛に飢えた子羊」なんて
言うフレーズがあるのではないかしら。
人生が一方通行で無いように、「愛」も決して一方通行ではないのですよ。老若男女。
さあ、ご意見聞かせてくださいね。そして今日は別の方から素敵な映像を頂戴しました。
毎日日記を読んでくださっているそうです。明日はこの方のメッセージを載せてみましょうね。
映像にタイトルが付いているところに花丸満点、悪い癖ですね、先生と呼ばれる因果な職業病で御免なすって。
タイトル「こんな世界が」