2004年 10月 27日(水)

夢か現か

天狗・・・だな、これは。
どこから見ても天狗にしか見えない。

私は天狗に出会ってしまったようだ。
幼い頃からおばあさまに「高尾のお山には、天狗がいるのですよ」と聞かされてきたが、そんなものは迷信だと思っていたのに。
特別に恐怖を感じる事は、不思議となかったが。
単に私の精神が麻痺してしまっただけなのだろうか。

どのような態度を取っていいのかわからず、その場に立ち尽くす私を天狗は黙って見ていたと思うと・・・その場にどっかりと、腰を降ろしてしまった。

「座らないのか?」
私の足元を指差して、そう言った。

「あ、いえ・・・では失礼して・・・・・」

恐らくその天狗は私よりは年長だと思うので、一応・・・言葉を選んで返答した後、私もその場に腰を降ろした。


「で?こんな山の中で何を迷っているんだ?」

天狗は穏やかな眼差しで私を見つめていた。

「迷って・・・いるのでしょうか?」
「だろうな。こんな所で迷うなんて、珍しい人間だ」
「・・・そう、ですね」

天狗は私を珍しいと言ったが、私にだって天狗は珍しい。
無礼なのは承知で、私は天狗を良く見てみることにした。

ふーん、案外いい男なんだな、この天狗は。
漆黒の髪は短く切りそろえられているし、日に焼けた顔はお世辞ではなく、美男子だ。
いや、美男子というよりも「美丈夫」と言ったほうが正しいかも知れない。
どうしてだろう。こうして見ていると、ざわざわしていた気持ちがなくなっていくのは。

私が黙っているからか、天狗も黙っている。
けれどそれは、嫌な沈黙ではなかった。

ああ、そうか。
目だ。
私を見つめている、天狗の目に・・・覚えが、あるのだな。
自愛に満ちた、穏やかな眼差しにあれ程ささく
れ立っていた気持ちが、すっと波が引くように穏やかになって行く。



「若い時は、誰でも迷うものだ。お前でなくても」

ふと、天狗が言った。

「この山は人の心の中の迷いを映し出す。誰しもが迷い、戸惑うが・・・その心の中に住んでいる者達に、迷いを感じる事はなかろうよ」
「・・・・・え?」
「人は自分が求め続けるる限り、一人になる事はないのだぞ」
「・・・・・・・・・・」
「ほら、聞こえてはこぬか?お前を呼ぶ、声が」

そう言われて、私は耳を澄ます。
ああ、聞こえる。
あれは慎吾の声だ。咲良や瑞樹・・・隼人と白雪の声もする。
私を探してくれているのだろうか。

「迷っても、迷っても。出口を探してもがいてこその生ではないのか?」
ほら、早く返事をしてやるといい。

天狗が浮かべるその穏やかな笑みに私は促されて立ち上がった。
行かなければ。
私を呼んでいる、あの声の所へ。


一歩、足を踏み出して。
そう言えば天狗にお礼を言っていなかった事に気が付いて、後ろを振り返ったがそこには誰もいない。


『いつでもお前を見ている。迷ったときは、呼ぶがいい』

木の葉を振るわせる風に乗って、天狗の声が聞こえてきた。





「あ、天音さん!」
「何やってるんですか〜。こんな所で!」

え・・・・?

「ほんまや〜。何でこんな所で寝てんねん!皆、心配したやないかい!」
珍しい。慎吾が声を荒げるなんて。

「本当だよ。天音さん、急にいなくなっちゃってさ。これでも俺達、必死で探したんだぜ?」
「・・・ここは、そんなに寝心地がよかったですか?」
直哉と白雪の額には、汗が光っている。


何が起こったのか分からずに、辺りを見回せば。
私は大きな古い樹に凭れて眠っていたらしい。

「まぁ、言いたい事は他にもあるんやけどな。こんな所にいつまでもおったら、体が冷えてまうし。早いとこ、下に降りるで」

すっと伸びてきた慎吾の腕が、私の腕を掴んで立ち上がらせた。



ふと、誰かが私を見ている事に気が付く。
そしてその瞬間。
あの穏やかな眼差しを、思い出した。
以前、おばあさまに見せていただいた・・・古い、写真。
その中でしか見たことはなかったけれど。
セピア色のその写真の中のおじいさまの目は、あんな風に穏やかだったのだ。