2004年 12月 9日(木)

ファーストフード

帰り支度をしていると、慎吾が泣き付いてきた。
「天音〜、俺はもう駄目や。生活に潤いを〜。心のオアシスを〜。」
べったり張り付いてくるな、鬱陶しい。

「一体なんです。」
「テスト勉強…頑張ってるんやで〜。ご褒美くれてもええやん。」
「あなたが今、ぎゅうぎゅうになっているのは、自業自得というものでしょう!」
日ごろからの積み重ねを欠かすからこんな事になるのだ。
しかし、一人前に目の下にはクマもこさえていることだし、頑張っているのには変わりないらしい。
仕方がないので、頭を少し撫でてやった。
「それで、何がご希望なんです?」
「ちょっとだけ…ちょっとだけ遊びに行こう〜。」
まったく仕方ないだだっこだ。
「…1時間だけですよ。」
私は少し強めに念を押した。

明日のテストは、英語と歴史。私には楽勝ペースだが、慎吾には悲惨な組み合わせらしい。
テスト期間は土日をあけて、来週の水曜日まで持ち越されるので、今回は余裕の日程だと思うのだが、それでも慎吾はひいひい言っている。
私とのデートに単語帳持参というのは、今までになかった事だ。

もしや…とは思うが、この間私がなすりつけてしまった悪運が、まだ慎吾に纏いついている事はあるのだろうか。
そうだとすると、せっかくこんなに頑張っている慎吾の成績にも大きく影響するかもしれない。
私は不安になってそっと聞いてみた。

「慎吾…この間言っていた最悪の運勢のことなんですが…。」
「なんやの? やっぱ悪い事あった?」
「ええ…まあ。」
癪だからあなたにすべて擦り付けてやりましたとは、さすがに言えないな。

「あれやったら、もう時効やで。今週は8月生まれが最悪やて、この間やってた。」
なんの屈託もなく、ニコニコしながら言う慎吾を見て、ほっとすると同時にちょっと罪悪感につまされる。
昨日おとといのあなたの悪運は、私のせいだということは当分の秘密だな。

「で? どんな悪い事があったんや?」
なんだか酷く嬉しそうに慎吾が聞いてくる。
「まあいろいろと…、祥太郎先生と直哉に出っくわして…。」
言いかけて思わず口を噤んでしまう。
あんな毛むくじゃらに顔面縦断で嘗められた…なんてことは、思い出したくもない。

「それはそうと…どうして祥太郎先生はああなんでしょうね!」
思い出したら腹が立ってきた!
最近の祥太郎先生の私への突っかかりぶりは、目に余る!
ニコニコしてれば本当に可愛らしいだけの先生なのに…、いやそもそも、教師のくせにどうしてあんなに生徒と対等に張り合おうとするのだろう!
「なんやの? 祥太郎先生ならおるで、ここに。」
慎吾が不審顔でひょいと私の目の前に差し出したのは…後ろ襟をとっつかまえられた祥太郎先生の情けない姿だ。

「むきゅー! なにー! そんなとこ掴まないでよ! 苦しい〜!」
「あ、すんません。つい…。」
慎吾が慌てて手を放す。小動物系の祥太郎先生だから、つい慎吾も襟首を掴まえたくなるのだろう。
私はすばやく周囲を窺った。いつも小うるさい直哉は…珍しくいないようだ。

「もーう! 明日からテストでしょ。こんなところでのんびりしてていいの?」
「1時間だけ息抜きしよゆうて、お茶のみにきたんや。せや、センセもどう?」
「えー、僕一応先生だから、テスト期間中はあんまり生徒と一緒じゃない方がいいんだけどな〜。」
「…せっかくだからご一緒しましょう。お聞きしたい事もあるし。」
もうこうなったら直接祥太郎先生に捻じ込んでやる!

「……いいよ?」
祥太郎先生は目をぱちくりさせて肯いた。私の鼻息に恐れをなしたのかも。
あいにく、お茶には良い時間だったのか、目当ての喫茶店はいっぱいだったので、仕方なくファーストフードの店に入る事にした。

そもそも私は、こういう店には数えるほどしか来た事はない。
それも、注文は必ず誰かが取ってきてくれた。だからレジに直接並ぶ事なんてなかったかもしれない。
レジが二つあって、慎吾が一つに並ぶと、もう一つのレジから緊張した面持ちのお嬢さんが、次にお並びの方と、私を呼ぶ。だから私はなんとなく並んでしまったのだ。

「いっ、いらっしゃいませ! 研修のタチバナと申します! ご注文はおき…お決まりでしょうか!」
広い店内に、研修中という彼女の甲高い声が響く。
礼儀正しい子だな。私はつい彼女に気圧されて返事をしてしまった。

「ああ、国見 天音と申します。よろしくお願いします。」
なにか…違和感を感じる。

一瞬静まったフロアから、次々失笑が漏れる。
「あ…天音、こんなところで名乗らんでもええんやで。」
慎吾が…慎吾の癖に、恥ずかしそうに顔を赤くして、少し嫌そうに顔を顰めて私に言う。
レジ嬢は…ぽかんとして私の顔を見て、それから高らかに吹き出した。
…どうやらいらんところでいらん事を言ってしまったらしい。
恥じ入る事はない…と思うが、どうにも居たたまれない感じで顔が火照る。

すると、私の脇から祥太郎先生がぴょこんと顔を出した。
「朝井 祥太郎でーす! よろしくおねがいしまーす! お返事は?」
「あっ…! はい! いらっしゃいませ!」
辺りを制するような祥太郎先生の大声で忍び笑いが途切れ、笑っていたレジ嬢も自分の本分を思い出したらしい。
これはもしかして、祥太郎先生が助け船を出してくれたのか…?
祥太郎先生は私を振り向いて、にっこり笑った。