| 2004年 3月 17日(水) |
レベル1
慎吾にとってはこのイスは低すぎるらしい。腕まくりをすると、大またを広げてどっかと座り直した。
「さあっ、いくで! 俺黒! 黒が俺のラッキーカラーやねん。」
慎吾はコマにチュッとキスをすると、第一手をパシンと置いた。
オセロでラッキーカラーもないもんだ。私は多少呆れながら、次の手を置いた。
すかさず慎吾の手が伸びる。考えている様子がまったくない。
「慎吾はずいぶん早打ちですね。」
「せや! こんなもんは動物的感でとっととこなさなあかん。今は早打ちでも、夜は早打ちちゃうで〜。」
「もー、やだ、慎吾センパイは〜!」
いちいちそういう方面に話を持っていかないと、ボードゲームもできんのか、この筋肉は!
しかし、私にはなんとなくゼブラの慎ちゃんの由来がわかってきた気がする。
ボードの上の黒白の割合が、常に拮抗しているのだ。
慎吾はとにかく多くひっくり返せるところにばかり打ちたがる。
オセロでは、四隅を取るのが定石だ。他にも正しい攻略法として、色々な定石があるが、慎吾の手はそれのどれも踏んでいない。
そんなずさんな戦法では、私に勝てるわけがないのだ。
「あ、あ、あ〜! こら、天音っ! おまえに慈悲はないんかい!」
「何を言ってるんです。これがシビアな現実です。ほらどうしました? パスですか?」
「ぐぬ〜〜〜! くっそ〜〜〜!」
ゼブラの慎ちゃんが、パンダになり、ブチ少なめのダルメシアンになり、ちょっと汚れた白豚になるまでにたいして時間はかからなかった。
「はい、以上。次からはゼブラ改め白豚の慎ちゃんと名乗りなさい。」
「白豚はあんまりや〜! せめて白馬にして〜!」
「何でもいいから早く祥太郎先生のところにお行きなさい。首尾よく聞いてくるんですよ。」
私は、未練がましくボードに縋りつく慎吾をせかした。
もともと、祥太郎先生の事を聞きたくて、瑞樹に相談しに来たのに、思いがけない時間を食ってしまった。
祥太郎先生は、玄関脇の乾燥室にいた。
中腰でストーブにお尻を突き出して、ウエアを乾かしているようだ。
そういえば、慎吾は初スキーのはずだったが、ウエアが全然濡れていない。分かっていたけどたいしたもんだ。
「センセ〜〜〜…。」
慎吾はよろよろと祥太郎先生に近づいた。先生は小さくくしゃみをしながら振り返った。
「どうしたの、桜庭君。全然濡れなかったって言ってなかった?」
「雪は濡れへんねんけど、天音に泣かされてびしょびしょや〜。」
言うと慎吾は恨めしそうにこちらを振り返った。柱の影で様子を伺っていた私と瑞樹は慌てて頭を引っ込めた。
うかつな! 祥太郎先生に不審がられるって!
「国見君に泣かされた?」
「ゲームに負けて…そんなことはいいねん。もう直球で聞くし!
なあセンセ、センセは直哉のこと、どう思ててん?」
…直球すぎる…。
「え? 直哉君? どうって…好きだよ。可愛い生徒だし。」
「そういうのを聞いてるんやないねん。ラブか、ライクか、どっちか言うてんねん!」
おっ! 慎吾にしては珍しく核心を突いた質問!
祥太郎先生は首をかしげると、大きな目をゆっくり瞬いた。
………ん? あのしぐさには見覚えがある。
祥太郎先生が何か考えているとき、いつもあんな動作をしてはいなかったか?
「ラブって言っても、いろんな意味があるでしょう。僕は太郎をラブだよ。」
「俺は天音をラブ…って、そんな高域な事とちゃうねんて!」
「そうは言っても、ライクにだっていろんな意味があるよ。」
祥太郎先生はにっこり笑った。先生お得意の、とびっきり無邪気な笑顔だ。
「えーとねえ、たとえば昔、マドンナが、ライク・ア・バージンって歌を歌ってたでしょ。あれはどんな意味だかわかる?」
「ライク・ア……、え、えとえと、好き…、好きな処女!」
ずる。その訳はあんまりだ。瑞樹の肩が震えている。笑いを堪えているな。
「そうじゃなくて、この場合ライクは〜のような、って意味でしょ。処女のようにってことだね。
君の場合は、構文力に問題があるのかなあ…。
それじゃ、スプリング・ハズ・カムは?」
「それは簡単や! スプリング言うたら、あれやろ!」
なんだか嫌な予感…。
私の心配をよそに、瑞樹が「春がきた」と呟いている。
「ばね持って来い!や!」
………中学生の英語だっちゅーに…。
しかもそんなに簡単に丸め込まれて…。
祥太郎先生はちょっと困ったように笑って、慎吾の頭を撫でた。
祥太郎先生の身長では、慎吾の頭に手が届きにくいらしく、爪先立ちだ。
「もうちょっと勉強しようね。」
「えー、なんでやの? あってへん?」
私は思わずくらくらとしゃがみこんでしまった。
慎吾には祥太郎先生の篭絡は荷が勝ちすぎるかと思ったが…予想以上だった。
「ダメですよ〜、天音センパイ。慎吾センパイ、か〜るくあしらわれちゃってます。」
みなまで言うな、瑞樹。私も自分の作戦の甘さに断腸の思いをしているところだ。
こうして祥太郎先生篭絡レベル1は失敗に終わった。