2004年 3月 25日(木)

くらり…

週末に舞うために、久しぶりに演舞場へ足を運んだ。
我が家の敷地の、離れとは反対の端に、父が建立した演舞場がある。
演舞場と名ばかりは立派だが、要するにお稽古場だ。
舞台に見立てた総檜張りの床は、お弟子さんたちの手入れの賜物か、見事なつやを保っている。

父が不在でよかった。父は公演続きで年の3分の2くらいはうちを空けているが、いるときはほぼこの演舞場にこもりきりだ。
神棚も祭ってあるここに、部外者が入るのを、父はとても嫌う。そして私はまだ、父にとっては部外者らしい。
だが、今日はたまたまうちにいた、一番古株の内弟子さんの一人にこっそりお願いすると、彼は快く演舞場を明渡してくれた。
彼は私が熱心に舞踊を学ばないのをもったいないと言ってくれる。
当代一の女形になれるのに…と、心底残念そうだ。
だが、私は私の艶姿を、売り物にする気は今のところまったくないのだ。
私の姿を愛でてくれるのは、親しい仲間と慎吾だけでいい。

花見の当日は、おばあ様がお三味を出してくださるそうだが、今日のところはCDで我慢する。
やはり目の前に据えた演奏でないと、なかなか呼吸が合わないのだ。
それにだいぶ久しぶりなので、われながら動きに切れがない。
日本舞踊といえども、真剣に舞えば手足も重くなるし呼吸も乱れる。
1時間ほど舞って、乱れた呼吸を正していると、不意に演舞場の扉がガタガタ言い出した。

「あ〜、やっぱり天音ちゃんだ〜。」
「おや、乃々香…。」

乃々香が嬉しそうな顔をして覗きにきていた。
我が家の裏手にある乃々香の家の、さらに乃々香の部屋は、そういえばこの演舞場とは直線上にあるのだった。

「お弟子さんたちの声がしないし、おじ様の声もしないし、お三味が一本調子だから、きっと天音ちゃんだと思った〜。」
「乃々香も舞いますか?」
「ううん、あたしは才能ない〜。天音ちゃんを見てるのが好き〜。」

乃々香のうちは、時代が時代なら庶民の前にも出ないような家系だ。
そんな血筋のせいか、乃々香は実におおらかで屈託がない。自分の得手も不得手も、何の気負いもなく言ってのける。

「久しぶりだねえ、天音ちゃんの踊り…。おじ様を継ぐ気になったの〜?」
「いいえ、まだまだ私は遊んでいますよ。それはそうと…。」

私は乃々香に向かって少し怖い顔を作った。

「乃々香、おばあ様に見せた私達の行事の写真と言うのはなんですか?」
「え〜、おばあ様、言っちゃったの〜?」

乃々香は、誰も怒れないような愛らしい笑顔を私に向ける。
だが私は幼いころから乃々香の極上の笑顔には慣れているのだ。そんな事ではごまかされない。

「私にも見せてください。」
「う〜ん、じゃあ、持ってくる〜。」

乃々香はちょっと首を竦めると、ふわふわと帰っていった。
乃々香のしたくはとにかく時間がかかる。私はまた舞の練習をはじめた。

30分ほどすると、乃々香が分厚いアルバムを抱えて持ってきた。

「あたしねえ、学校の写真部に仲のいいセンパイがいるの〜。そのセンパイが、いっぱいお写真くれるの〜。」

あまりのアルバムの分厚さに、私は嫌な予感を隠せない。
恐る恐る開けてみると…そこには案の定、先日の学園祭でのゴスロリや、駅前のホテルでの花嫁衣裳、ひいてはなぜか私の代の白鳳マーメイド授与式まである。
私ばかりではない。ウエディングドレスの私の隣に立っている純白のタキシードの直哉とか、尻羽をつけた雪紀とか、コワイオスカル姿の慎吾やら…とにかく生徒会の面々が余さず写っているのだ。

思わずくらりと目が回った。

「天音ちゃん、だいじょうぶ〜?」
「大丈夫じゃありません…。誰のせいだと思っているんです…。」
「え〜、あたしのせいじゃないよう〜。」

こんなのをお茶のみ話に敬愛するおばあ様にお見せしていたのか…乃々香は…。

「それにおばあ様、喜んでたよ〜。天音さん楽しそうねえって…。」

………そうか。
考えてみれば、日本舞踊を生業とする父の生みの親なのだ、おばあ様は。
女形やら、男同士のどろどろした因習やらには慣れていらっしゃるのだ。
慎吾にもいつも良くして下さるのも、そういう下地があってこそかもしれない。

しかし、まさかとは思うが、それを今回の花見に何か期待されたりしていないだろうな、おばあ様は…。

「乃々香…、この次からは、おばあ様に私の写真を見せるときには、その前に私に一言言ってくださいね…。」
「うん、覚えてたらそうする〜。」

めげない乃々香の返事にまたくらりとなりながら、私はアルバムを閉じた。
後はおばあ様が当日、妙なことを言い出さないのを祈ろう。