| 2004年 3月 3日(水) |
桜づくし
夕べ遅くまで送辞の文章を考えていたので、今朝は寝不足だ。
着替えて食卓には着いたものの、ちっとも食欲がない。
「天音さん、夕べは遅くまで明かりがついていたようだけど…。」
母が心配している。実際、今朝は自慢のお肌もくすみがちだ。
「今週末の卒業式に向けての準備が忙しくて…、あ、すみません、おみおつけだけで結構です。」
「あら、ダメですよ、きちんと召し上がらないと。身体に障りますよ。」
母はそう言うが、ご飯を盛られても食べる気がしない。
「それじゃ、お汁に卵を一つ落としましょ。それくらいなら召し上がれるでしょう?」
「あら、お母様、それじゃ申し訳ないですわ。」
「いいんですよ、百合子さん。今朝は私達も久しぶりに卵を落としたお汁をお相伴しましょ。」
子供の頃、よくおみおつけに卵を落としてもらったが、それをすると汁が白身で濁るのだそうだ。
私達をすっかり出してから朝食を取る母とおばあ様は、私達の残りを食べることになる。
濁ってしまったおみおつけでは、なんだか申し訳ない。
「おばあ様、私なら…。」
「もう落としちゃいましたよ。余計な心配しなくてよろしい。
男の方が出かけるのに、きちんとしたお食事をさせて上げられないのは、女の恥ですからね。
それに天音さん、子供の頃からこれが大好きだったでしょ。」
まったくおばあ様にはかなわない。
私はありがたく、ふわりと半熟に煮えた卵に箸を入れた。
「でも、卒業式の準備ってそんなに忙しいんですの?」
「ええ、ちょっと人員が一人欠けてしまって…、でも今週末までですから、大丈夫ですよ。」
私はそう言っておいたが、おばあ様はなんだか考え込んでしまわれた。
放課後、生徒会室に向かっていると、携帯がメールの着信を告げた。
慌てて取り出してみる。珍しい、おばあ様からだ。
『天音さん、ちょっと校門の前まで出てこられませんか?』
何事だろう。私は急いで校門へ向かった。
校門の前には、見慣れた涼やかな姿が立っていた。
おばあ様は臙脂の風呂敷に何かを包んで立っている。
通り過ぎる学生達が、不思議そうな目で和服のおばあ様を振り返ってみている。
「おばあ様、どうかなさいましたか?」
「ああ、天音さん、急に呼び出してしまってごめんなさいね。」
おばあ様はにっこり笑うと風呂敷を私に差し出した。
私は首を傾げながら受け取った。ずっしりと重い。
「今日はひな祭りのお茶会をやったので、桜餅を作りましたのよ。生徒会の皆様でどうぞ。」
「え…っ?」
そういえば今日はひな祭りの日だったか。
我が家は必ずひな壇の前でお茶会をする。
桜餅はおばあ様のお得意の一つだ。
「ありがとうございます、おばあ様…。」
「急いで作ったので、皆様のお口に合うといいんですけどねえ…。」
おばあ様ははんなりと笑って帰っていかれた。
私は感謝しながらそれを生徒会室に運んだ。
「みなさん、お茶にしませんか。おばあ様から差し入れがあるんです。」
小腹がすいた頃を見計らって声を掛けると、なぜか一番働いてない慎吾が真っ先にやってきた。
「おばあ様の差し入れ! そうか、今日は桜餅の日か! いやあ、嬉しいなあ。」
ひな祭りも慎吾にかかれば桜餅の日である。
私は風呂敷を開けてちょっと呆れた。
おばあ様は、生徒会が何人で構成されていると思っておられるのだろう。
「うわあ、すごい! いっぱいありますね!」
「すごくいい匂い…、ちょっと大きさが違いますけど、これって…。」
「ええ、おばあ様が作られたのですよ。」
おーっと、歓声が上がる。和菓子が手作りできるなんてみんなには信じられないようだ。
だが、意外と桜餅は簡単にできる。
小麦粉を溶かした皮を鉄板で焼いて、餡子をくるんで、桜の葉を巻いて、はい出来上がり。
もっとも、それをこんなに美味しくできるのは、おばあ様の腕なのだが。
「あっ、俺この間銀座で、桜の紅茶を見つけたんです! 煎れて来ますね!」
咲良がすばやくお茶の準備をする。
正直、桜餅に紅茶?と思わないでもなかったが、これは少し変わったお茶だった。
色は緑茶の色。カップに注ぐとふわりと桜の香りがする。
ほんの少し苦い。だが、さらりとして、後口が実にさっぱりしている。
「美味しい! 和菓子にも合いますね。」
「えへへ、僕の名前と同じ紅茶だから気に入って買ってみたんです。
気に入って頂けてよかった! でも…。」
得意満面だった咲良の顔が少し曇る。
「こんなに美味しいお菓子とお茶、雪紀さんにも上げたかったな…。」
「優しいですね、咲良は。」
私は微笑んで、咲良の頭を撫でた。
「こんなにたくさんあるんですから、少しお持ちなさい。お茶と一緒に。」
「えっ、いいんですか?」
途端に咲良の顔が明るくなる。あんまり正直なのでおかしくなってしまう。
「いいですよ。今日は桜尽くしで、咲良の日みたいですものね。」
それに到底こんな量は食べきれないだろう。
おばあ様、50個は多すぎです。
「えー! 余ったら俺がもらって行こう思てたのになー!」
慎吾…、君は食べすぎです。
忙しい生徒会室が一時華やいで、桜の香りに満ちた一時だった。