| 2004年 3月 31日(水) |
KARASU銀座
夕べのこと。おばあ様が拝むようなしぐさをしながら私の傍へやってこられた。
「天音さん、申し訳ないのだけれども、明日のお稽古、代わっていただけませんか?」
おばあ様は、いくつか外でもお花を教えている。
確か木曜日は、荻窪あたりのカルチャースクールだったか。
「構いませんよ。どうなさったのです?」
「いいえね、生徒さんたちが、春休みだし、若先生にぜひお願いしたいって仰るの。
もし天音さんが引き受けてくださるなら、私は銀座の個展を見に行きたいのだけれども。」
そういえば、3月いっぱい、銀座のデパートで新進気鋭の華道家の個展をやっていて、おばあ様は前からそれを見に行きたいと仰っておられた。
たまには、おばあ様孝行もよいだろう。
私の部屋では慎吾がビデオを見ながら大口を開けて笑っている。
私はなんだか風流に浸りたくなったこともあり、二つ返事で快諾した。
翌朝、食事のために慎吾を伴って座敷の方へ行くと、濡れ縁のあたりに内弟子さんたちが固まってなにやら話をしている。
何か、洗濯物を取られたとか、そんなことを言っているようだ。
「なにぃ! 下着泥棒かいな、えげつな! そんなん俺がとっ捕まえたるで!」
「違うんです、とられたのは針金ハンガーなんです。」
慎吾の鼻息の荒さに笑い出しながら、お弟子さんは話してくれた。
物干し台に掛けておいた針金ハンガーが根こそぎなくなっているという。
おもえばそのときに、もう察するべきだったのだ。
食事を済ませた私達は、おばあ様とお弟子さんたちに見送られて家を出た。
慎吾はもちろん、ついてきても何の役にも立たないのだが、甘えた声で
「天音の先生やってるとこが見たいねん。」などとかわいいことを言うので、生徒としてもぐりこませようと思っていた。
駅への近道を通ろうとして、私ははっと嫌な予感に身を竦ませた。
そういえば、そろそろそんな季節だったのだ。
春は恋の季節である。私は盛りのついた猫どもがぎゃーぎゃー騒ぐのも怖くて布団を引っかぶってしまうが、他にもいろいろ怖いものがある。
それは恋を知ったカラスの凶暴さだ。
「ん? どしたん? 天音。」
私は恐々見上げた。駅までの近道は、高い塀に囲まれた通り抜け路だ。塀の向こうには、カラスが巣を作るのに格好な廃屋がある。
ここから見るだけでも、いくつか巣が見える。そのうちのいくつかは、カラフルな針金ハンガー製だ。
そしてそこはこの季節、カラス銀座と呼ばれているのだ。
都の躍起の政策のお陰でかなりカラスもなりを顰めたとはいえ、やはりまだ目立つ。
巣をつくり、ペアリングをして子育て中のカラスどもは、異様に気が荒い。
そしてここは、彼らのテリトリーなのだ。たとえ人間でさえ、ここに迷い込むものは排除される。
案の定、両側の塀の上にはずらりとカラスが並んで、低い脅しの声を上げながら、私達を見下ろしている。
足が止まってしまった私に、慎吾は不思議顔だ。
「どしたんや? 早よ、行こ。」
「だって、カラス…。」
「んん?」
私の顔を覗き込んでいた慎吾が破顔した。
「なんや、カラスも怖いんかい、かわいいなあ、天音は。」
なんとでも言え。この時期のカラスは普通じゃないのだ。
「怖いことないで。俺が守ったる。ほら、行こ。遅刻するで。」
それはそうなのだ。慎吾が寝坊するから、家を出るのがぎりぎりになってしまった。いまさら迂回はできない。
「大丈夫やって。ほなら俺が先に行くから、ついて来なさい。」
カラスがだんだん大きな声を上げ、翼をばたつかせて威嚇しているのに、慎吾はその中にズンズン進んでいく。
あれは、仲間を呼び寄せている声なのだろうか。どんどんカラスの数が増えているような…。
私が固唾を飲んで見守っていると、ついに1羽がふわりと飛び立ち、翼を広げて水平飛行に移った。
目指す先は、黒々とした慎吾の固い髪だ。
「あいたっ! なんや、こいつ。うわ、あいたっ!」
1羽が襲い掛かったのを皮切りに、次々カラスが飛び立っては慎吾の方に突進していく。
殆どの奴は威嚇で近くを掠めるだけだが、中には嘴できつい一撃を加えていく奴もいる。
「にゃろ! カラスなんかに負けへんで! うお、卑怯もんめ、地べたで戦わんかい!」
たいていの人は頭を抱えて退散するのに…。あの筋肉は、カラスと同等に争っている…。
「慎吾、早く…。」
言いかけて私は我に帰った。
もう時間がない。次の電車を逃すと、大遅刻だ。おばあ様の代理でそんな非常識なことはできない。
私のとるべき道は残されていなかった。
「このっ、このっ、………あっ、天音っ! こいつら何とか…、こら、天音、シカトかい!」
そう、慎吾がカラスたちを引き付けているうちに、私はそっと傍を走り抜けた。
だって最初から、慎吾は私を守るといっていたのだ。男なら、一度口に出したことは全うしてもらわねば。
私は無事その路地を通り抜けると、今やカラスにたかられて真っ黒になっている慎吾に遠くから激励と感謝の気持ちを込めて拝んでみた。
あとで埋め合わせが必要かも…。
それでもカラスと対峙するよりは、慎吾の方が扱いになれている私なのだった。