| 2004年 5月 4日(火) |
こいのぼり
今日は妙なお天気だ。空が青空と雨雲とのまだら模様になっている。
そして生暖かい強風が吹いている。どちらかといえば乾燥肌の私には、程よく湿った空気は心地よいが、蒸し暑いのは勘弁してもらいたい。
洗濯物を干していたおばあさまが、小さく悲鳴を上げながら戻ってこられた。
手には、取り込んだばかりのシーツが翻っている。
「まあ、ひどい風だこと。お洗濯物が飛んでいってしまいそうで、気が気じゃありませんわ。」
おばあさまの、いつもきれいにまとめられたお団子髪がほつれている。
「おばあさま、おぐしが…。」
「あらあら、まあ、殿方の前ではしたない事。」
おばあさまは慌てて髪を撫で付けた。
「さっきも、商店街の植木鉢が軒並み倒れていて、大変でしたのよ。
明日の子供の日にはこの風も止むといいわねえ。何かお子様方には行事があるのでしょう?」
「せや! 子供の日や!」
さっきからぼけっとテレビを見ながら柏餅に食いついていた慎吾が、いきなり背中を伸ばした。
余談ではあるが、慎吾の柏餅の食べ方はすこぶる汚い。
端っこを少しかじって穴をあけ、中のあんこをちゅうちゅう吸い出すのが好きなのだ。
そして餅は餅、あんこはあんこで食べるのがおいしいのだという。
そんな汚い食べ方を、私はほかに見たことがない。
「天音んとこの子供の日はなんか物足りないと思ったら、こいのぼりがないんや!」
何かと思えば、急にそんなことを目をきらきら輝かせて言う。
「なあ、おばあさま、ここんちはこんなに立派なよろいかぶとがあるのに、どうしてこいのぼりはないのん? ここんちの庭なら、運動会の国旗みたいに飾れるで。」
そう言われてみれば確かにそうだ。我が家にはこいのぼりが存在したことはない。
しかし慎吾は、こいのぼりをあの運動会の国旗のように並べ立てたいのか?
…下品だ。
「まあ、こいのぼり? うちはそんな時代錯誤なものは立てませんのよ。」
なぜかおばあさまが腹立たしげになられた。
時節のお祭りが大好きで、必ず律儀になさるおばあさまがいったいどうしたことだろう?
だって、今も現によろいかぶとはかざられているし、茶の間の大皿には柏餅が山盛りになっているし、晩にはすがすがしい香りの菖蒲が風呂場にたんと置かれるのだ。
「おばあさまは、そういうの大好きや思うたのになあ…。」
おばあさまのちょっと尖った声に、慎吾は尻尾と耳とをたらしてきゅーんと情けない声を上げる。
おばあさまも、その慎吾の情けない姿を見て、少し機嫌を直されたようだ。
「だって、ねえ、こいのぼりの歌を歌って御覧なさい。」
「えー、こいのぼりの歌?」
慎吾は首を傾げたが、すぐに私の大好きなハスキーな声で歌い始めた。
「屋根より高いこいのぼり
大きな真鯉はおとうさん
小さい緋鯉はこどもたち
面白そうに泳いでる。」
「ほら、ねえ、こいのぼりの一家には、お母さんはいらっしゃらないのよ。」
…確かにそうだ。
「それにねえ、お父さんが真鯉で、子供たちが緋鯉なら、血は繋がってないんじゃありません?
こいのぼりの家族は、あくまでお父さんだけが主体の、男尊女卑もはなはだしいご家族ですのよ。」
…それはそうかもしれないが、おばあさま、何もそこまで…。
「私はね、戦争で父を亡くして、高度成長期の時代に夫を亡くしましたの。
だから、私たちは殿方の力など借りなくとも、立派に子育ても、家の再興も担ってきました。
それなのに、こいのぼりを掲げると、殿方の力だけに頼って不都合や不幸せを時代や家のせいだけにする弱い女の象徴を掲げているようで嫌なんです。」
おばあさまは一息に言うと、さめてしまったお茶を飲んだ。
「もちろん私も古い時代の女ですし、今のお嬢さんがたのように何でも自分は殿方と同じ、といいきれる闊達さはありません。
でもね、なんとなくあれを掲げてしまうと、私たちのがんばりが、すべて私たちの前の代の殿方たちの功績に摩り替わってしまう気がして、それで嫌なんですのよ。
まあ…年寄りの狭量なのでしょうけど。」
いつも朗らかなおばあさまが珍しく苛立ちをあらわにして話される姿に、私たちは驚いてしまって二の句が告げなかった。
「あらいやだ、お喋りが過ぎてしまったわね。
ごめんなさいね。せっかくの殿方のお節句なのに。」
おばあさまは我に返ったように、いつものチャーミングな微笑を浮かべられた。
「おばあさまは並みの男よりよっぽど男らしいで。こいのぼりなんかに惑わされたらあかん!」
慎吾は何か感じ入るところがあったのだろう。拳を握って力説している。
それにしても…その励ましはおばあさまには嬉しいだろうか?
私はおばあさまのことを良く知っているつもりで、実はうわべの可憐さしか知らなかったのかもしれない。
おばあさまに、こんな決然とした一面があるなど、今まで知らなかった。
さすがは私の敬愛するおばあさまだ。
端午の節句を前に、おばあさまへの認識を新たにさせられた1日だった。