2004年 6月 8日(火)

梅の実

今日は自主休校である。
昨日散々慎吾を笑い者にしてしまったから、そのお返しが面倒くさいのだ。
もちろん、お返しと言っても、慎吾が私に逆らったり居丈高に迫ることなどありえない。
ただ、あんな大きな男が1日中べったり纏わりついて、べそべそと愚痴をこぼすのを聞きたくないのだ。
慎吾は以外と粘着質だ。特に機嫌が悪いときは赤ん坊帰りに近いことになってしまう。
そんな面倒ごとは雪紀にまかせておけばいいのだ。

私が部屋にこもって本を読んでいると、おばあさまが声をかけられた。
「今日は学校へは行かれないの? お休みじゃないのでしょう?」
「3年生はそんなに出席しなくてもよいのですよ。」
真っ赤な嘘で少し胸が痛むが、嘘も方便と言うしな。

「それじゃあ、少しお手伝いしていただきたいのだけれども。」
おばあさまがおねだりのポーズで私に手を合わせられる。私はこれに滅法弱い。
おばあさまの可憐な仕草には、どうしても逆らえないのだ。

「いいですよ。なんですか?」
「ああよかった。お父さんの公演で男手がないものだから、女の子のお弟子さんにはしごを上らせるわけにはいきませんものねえ。」
おばあさまは華奢な腕を上げて、庭の一角を指された。
そこには数本の梅の木がある。

「今年も立派な梅の実が沢山生りましたのよ。梅雨に入ってしまったから、早く採っておきたかったのだけれど困っていたの。
天音さん、足元にお気をつけて採ってきて頂けないかしら。」
私は肩を竦めた。
私にそんな肉体労働は向かないが、かといっておばあさまにそんな危ないことをさせるわけには行かない。
もちろん、沢山いるお弟子さんたちにも同様だ。
第一、私という跡取息子がいるのに、女の子にそんなアクロバットをさせられないではないか。

私は倉庫から脚立を引っ張り出すと、梅の木の下まで持っていった。
下から見上げても、きれいな実がたわわに実っているのが分かる。
ただ、実際にはっきり見える実は少ない。ほとんどが、葉の色に隠れてしまって、よく見えないのだ。
だから、脚立に上れば、下から見ている以上に沢山の実に遭遇する。

おばあさまがほっそりした腕を伸ばしてバケツを差し出してくださるのを断って、私はバケツごと脚立に登った。
青いままでは毒を含むと言う梅は、よい匂いを発している。みっしりと産毛の生えた表面は、まるで赤ん坊のようにまろやかだ。
私は楽しく思いながら実をつんでいった。夏には美味しい梅酒が頂けるだろう。

だが、私の上機嫌も最初のうちだけだった。

奥の方の実をつもうと、手前の葉を触ったとたん、指先に異様な感覚が走った。
ぷち。ぷちぷちぷちぷち。
私ははっと息を呑み、恐る恐る指先を眺めた。

「あ、天音さん、その辺はカイガラムシが沢山いるから、気をつけてね。」

ひいいいぃぃぃぃぃぃぃ……………!!!
わ、私の白魚の指先に、得体の知れない虫のおつゆがっ!

よくみると、あっちにもこっちにも、豊かに生命は脈打っている。カイガラムシだけではない。
尻から糸を吐き出してぶらりんとぶら下がる薄青い虫やら、粉を撒き散らす蛾やら、生意気にもとげとげで威嚇する毛虫やら!

脚立の上で硬直する私を見越していられたのか、おばあさまが情け容赦のない声をかけられる。

「後3本でおしまいだから、全部採ってくださいね。
天音さんの大好きな、おいしい梅酒を造ってあげますからね。」

おばあさま…、あなたは鬼ですか…!

すっかりへっぴり腰になってしまった私は、それでもおばあさまに急かされるまま、虫まみれになって梅の木の間をうろうろするしかなかった。
………こんなことなら慎吾に纏わりつかれていたほうが…なんぼかましだったかも知れない…。