2004年 7月 4日(日)

夏の風情

慎吾の教育も、まあなんとかかんとか着々と進んでいる。
昨日は数学と首っ引きだった。
実は私も数学は胸を張って得意科目といえるほどに得意なわけではない。
明らかに文系の私には、複雑な数学だの化学だの物理だのは鬼門に近い。
しかし、テスト範囲だけはきっちり網羅している。学校で学ぶ教科が不消化などと他人に取られるのは、私のプライドが許さないからだ。
本当なら、理数系の直哉か雪紀に、このあたりだけは委ねたいところだ。
しかし、直哉はとにかく雪紀は咲良の面倒を見るのに手一杯で私たちまで手が回らないだろう。
だから私にとっても、昨日の数学のフォローは結構無理があったのだ。
おばあさまがお夕飯を持っていらしたころには、すっかりくたびれ果ててしまった。

ここ数日、大変気候が良い。
気温は高いのだが、空気がとても乾燥していて、屋内にいる限り、たいして暑く感じないのだ。
おかげでまだ、暑さのために食欲を減じるところまで行っていない。

「暑さよけには良いと聞いたのだけれども、まだ必要なかったかしらねえ。」
おばあさまの今夜のお夕飯のメニューも、和食中心だった。
僅かにアイボリーがかった大豆の香りも爽やかな冷奴に、オクラのお浸し。キンキの煮付けにニラタマのお味噌汁。
そして、ちょっと見かけないものがあった。ゴーヤチャンプルーだ。

青々としたゴーヤと豚肉とたまねぎをおしょうゆで炒めたものを、卵で閉じてある。
食べてみると、ほろ苦いゴーヤがさっぱりと胃の中を洗い流すように清清しい。

「んまい! ほんま、おばあさまの料理はいつも天下一品やわ!」
「まあ、ありふれたお菜ですよ。」
謙遜しながらも、おばあさまはとても嬉しそうだった。
いつも食の細い私に代わって、慎吾がおばあさまの調理欲とでも言うものを満たしてくれる。

食事が終わると慎吾がそわそわし始めた。しきりに私の衣服のすそをつまんでは引っ張る。
「はよ、天音の部屋へ行こ。今夜はいっしょに風呂入ろ、な。」
まだおばあさまもいらっしゃるのに、そんな恥ずかしいことを耳打ちしてくる。
しかしあいにく、昨日の私はまったくそんな気分ではなかった。
頭の中を苦手の数学の公式が走り回って、とてもそんな気になれない。
…慎吾だって、そんなに励んだら、せっかく覚えた公式やら何やらが抜け落ちるに決まっている。

今夜は清い夜をすごすことに決めた! さて、どうやってこのスケベ大王を諌めるかな…。

そう思っていると、おばあさまが声をかけてこられた。
「慎吾さん、天音さん、お湯を使っていらっしゃい。
浴衣をご用意しておきますから、お風呂上りにもう一度こちらにいらしてね。
今日はこんなものを買ってみましたのよ。」

おばあさまが差し出したのは、花火のセットだ。とたんに慎吾の目が輝く。
「花火や! うわ、懐かしなあ!」
「ちゃんとスイカも用意していてよ。」
おばあさまの楽しそうな提案に、慎吾は途端にころりと懐いてしまった。

危険を回避するために、お風呂へは別々に入り、慎吾に浴衣を着付けてやって居間に戻ると、おばあさまとお弟子さんたちも浴衣で待っておられた。
「さあ、慎吾さんはどれがお好き?」
おばあさまが差し出したのは、日本古来のゆかしい花火たちだ。
慎吾は楽しそうにそれらをいくつか受け取った。

「しかし、天音んちは東京やないみたいやなあ。庭で花火が出来るなんて。」
縁側でスイカをかじり、足をぶらぶらさせながら慎吾が言う。おばあさまは楽しそうに笑った。
「ご先祖様からお預かりしたおうちですからね。感謝してますよ。
でも、広いお庭はお手入れが大変なの。夏になると、池から沢山蚊が湧くから、蚊帳がないといられませんしね。」
「蚊帳! 俺、そんなん見たことないで!」
慎吾の目がきらりと輝いた。

「蚊帳…いうたら、あれやろ。ええなあ。雰囲気たっぷりやで! 今夜はそこでしっぽり…。」
私の耳元に顔を寄せて、そっとそんなことを呟く。
それは良いが、耳元でグフグフ笑うな。鬱陶しい。

「あら、それじゃあ、蚊帳をためしてごらんになる?」
「ごらんになる!」
鼻息荒い慎吾。もう頭の中は、その薄いまくの中でのあれやこれやでいっぱいだな。

「じゃあ用意しましょう。悪いけど、お布団をこっちに運んでくださる?」
「え? こっち…?」

慎吾が固まる。私にとっては具合が良い。

「ええ。蚊帳を吊るにはあれが必要なの。」
おばあさまは袂を押さえながら細い腕を上げて、鴨居を指差す。
そこからは、つり革みたいなものが下がっていて、それが蚊帳を支えるものらしい。

「今日は特別に、こちらでお休みになってね。大きな蚊帳を吊りますから、天音さんと二人で入られるとよろしいわ。
ああ、私もお隣の部屋で休ませていただくから、なにかあったら呼んでくださいね。ふすま一枚だから、すぐ伺えるわ。」

「ふすま一枚隔てて、おばあさまと一緒…?」
慎吾はうめいた。私は知らん顔だ。自業自得と言うのだよ。

「な…生殺しや。蚊帳の中で天音と二人っきりなのに、おばあさまがすぐ隣…。」
慎吾はふるふる震えると、そっと私のほうを振りかえった。

「なるべく静かにしても…、やっぱ聞こえるよなあ…。
天音…猿轡なんて………?」
「却下。」

懐の深くて底知れないおばあさまでも、さすがに睦言を聞かせる気にはならない。
こうして私は昨晩の安眠を確保したが…、慎吾は悶々と一夜を過ごしたのかもしれない。