| 2004年 7月 8日(木) |
○○との戦い
テストが始まった途端に信じられない暑さが続いている。
基本的に全館冷暖房完備の我が校だから、制服も純白の学ランが上質の麻地に変わるだけだ。もっとも汗っかきの慎吾などはずっと上着を取って振り回して歩いている。
私はずっと耐えている。白いシャツに白いパンツというのは、どうしても私のセンスには合わない。かといって、上着を着て汗染みを浮かせることなどありえない。
というわけで、私の夏は倍大変なのだ。
テストも残すところ数教科。選択教科の少ない慎吾は、今日ですっかり終わった筈だ。
私が迎えに行くと、この上なくキラキラした目つきが待っていた。
「天音! やっと終わったで〜これでやっと夏到来や!」
「…私はまだ終わってません。」
もう既に一騒ぎした後らしい慎吾は、真っ赤に上気したほっぺたをてからせて、私の言葉など聞いてない風だ。
「プールや! 今年はまた記録伸ばして! 秋には選抜があるから見に来てくれるやろ、天音!」
「今年はその前に球技大会がありますよ。」
「せやった! そっちも楽しみや! 隼人の奴こてんぱんに伸したるで!」
数日前のしおれようとは雲泥の差だ。
スキップするように歩いていた慎吾は、1階まで降りると急に進路をかえた。
上履きのままグラウンドへ飛び出して、誰かが忘れたボールを拾い上げると、ドリブルをしながら走る。バスケの練習でもしているつもりなのだろう。
私はこんな倒れそうな日差しに晒されるだけでも嫌だ。小さな日陰に入って目を細めて慎吾を眺めた。
手を焼かせはしたが、真面目に勉強したのだ。テストが終わった今、これくらいの羽目はずしは大目に見てやらなければならないだろう。
それに走り回る慎吾は、本当に生き生きとして、素敵なのだ。
やがて走り飽いた慎吾は、それこそ大型の犬みたいに大きく喘ぎながら戻ってきた。
「うい〜〜〜〜あっちい〜〜〜。も、も、うだりそうやで〜〜〜。」
「こんな日に走るからですよ。日射病になりますよ。」
「水、水、うあ〜〜〜、全身の毛穴が開いとる〜〜〜。」
慎吾はよろよろ歩いて、水飲み場へ行った。銀色に光る蛇口をキュッと上へ向けて、勢いよく水道水を迸らせる。そうしてそれを飲みつつ、頭から被った。
「慎吾、そんな水じゃなくて、飲むなら購買部でミネラルウォーターを…。」
「そんなまどろっこしいこと、やっとれへんねん。きっもちええで〜、天音。真似してみ?」
「冗談じゃありません。その後どうするんですか。」
「だって寮はすぐそこやし。ええやん、ちょっとばかし濡れたって。」
私はちょっと羨ましかった。最近は汗をかくのを極力防ぐために、最低限の水分しか取ってない。喉はいつでもからからだ。
おばあさまは体に悪いとおっしゃって嫌がられるけれども、それより私は汗染みの方が嫌なのだ。
「あれっ、思い切っちゃってるねえ、桜庭君。」
そこにひょいと現れたのは祥太郎先生だ。まぶしそうに瞳を眇めて、祥太郎先生はニコニコ笑った。
そう言えば、祥太郎先生の担当している部分も今日ですっかり終わったのだったか。それで晴れ晴れした顔をしているのらしい。
「おうっ、気持ちええで、センセ!」
「僕も飲もうっと。なつかしいなあ、この鉄臭い水。」
先生は少し背伸びをするようにして水を飲み、それから私の方を振り返った。
「国見君は飲まないの? 唇乾いてるよ。」
「いいんです。あんまりがぶ飲みすると、汗になりますから。」
「でも夏場は、たっぷりお水飲んだ方がいいんだよ。」
祥太郎先生はゆっくり首を傾げた。………いやな予感…。
にやーといたずら小僧みたいに笑った祥太郎先生は、いきなり蛇口に手を伏せた。結構な水量の出ていた蛇口から、狙い違わずまっすぐ私の方に水が飛んできた。
「うわっ、何を…。」
「でええっ、いきなりなんやねん!」
妙なところで公平好きな先生のポリシーによるものだろうか、水は等分に飛んできて、私たちをびしょ濡れにした。もちろん祥太郎先生自身もその災禍を免れない。
「あはは。ほらもうびしょびしょだよ。汗ちょっとくらいかいたって大丈夫。全然わかんないよ。
だからほら、水分補給しなよ。」
…こんな教師がアリか?
私は観念して、水道に寄った。ほんとの所、のどは限界まで乾いていたから、こうして誘惑に負けるのはとても心地よかった。
初めてがぶ飲みする水は、祥太郎先生の言う通り鉄臭く、お世辞にもおいしいとは言えないが、なぜかとても甘く感じられた。
…私も結構祥太郎先生に毒されてるな…。
「そう言えばさっきねえ、隼人君に会ったよ。」
「隼人! あいつまたセンセになんぞいちゃもん付けたんやないんですか?」
「ううん? 僕の古典のテストがとってもよく出来たって自慢そうだったよ。」
古典のテストといえば、隼人がボイコットすると散々騒いでいた奴だな。
そう言えば、満点を取ることで、隼人は祥太郎先生を悔しがらせるという風に、軌道修正させられたのだったな。
祥太郎先生は髪から滴る水滴を拭ってにっこり笑った。小さく首が傾げられる。
「それは良かったね。僕も隼人君が僕の授業をしっかり消化してくれたかと思うと、こんな嬉しいことはないよ。って言って上げたら、なんだかプルプル震えて、泣いて逃げ出しちゃった。祥太郎のどちくしょーだって。あはは。」
「センセ…、だってアンタ…。0点取ったらって…。」
慎吾まで呆れて、祥太郎先生をアンタ呼ばわりだ。
隼人が0点とってくれたら嬉しいと、あんなに連呼した祥太郎先生は、ちゃっかり意見を翻している。まあ、もちろんこっちの方が正しい教師のありようではあるのだが。
「ほんと…、隼人くんって可愛いよね〜。」
ぺろりと舌を出して、祥太郎先生は涼しい顔だ。どっちにしろ隼人は、祥太郎先生を悔しがらせることなんて出来ないに違いない。
あの直哉は愚か、私までこうして手玉に取っちゃう先生なのだ。隼人みたいな直情型には手におえないに決まってる。
うーん、これは…。直哉も難しい相手に引っかかったものだ。