| 2004年 8月 10日(火) |
おばあさまの結婚
「ここは幸い戦火を免れましたけど、東京も火の海になったのですよ。町を歩けば、至る所に屍が山と積まれて、それは酷いありさまでした。」
おばあさまは少し目を細められた。
「幼かった私にさえ実感として感じられる敗戦の雰囲気にも関わらず、聞こえてくるのは日本の勇ましい進軍ぶりばかり…。どうしようもない猜疑心と不安に苛まれながらも、誰もがそれを口に出せない時代でした。
我が家は…きっと私の祖父が、鼻薬でも効かせたのでしょうね。父のところにも、兄のところにも、赤紙は届きませんでした。
でも…男の人はしようがない事。当時成人したばかりの兄は、自分一人がのうのうと家に居る事を嫌って、わざわざ志願兵となって旅立っていったのです。ここには、お式を挙げるばかりだった、可愛らしいお嫁さんもいたのにね。」
「日本中の健康な男子がかき集められましたから、兄は居たたまれなかったのかもしれません。あるいは、出征前に言っていたように、本気で武勲を立てたかったのかも。
兄はそのお嫁さんを本当に好きでしたから、意気地なしの嫁にさせてしまうのは申し訳ないと思ったのかもしれません。
本当に…男のひとはしようがない。見えを張りたいのですね。女ならば自分の幸せを掴むためなら、後ろ指指されようが、泥にまみれようが、耐えられるのに。
あんなに固く帰ってくると約束したのに、戻ってきたのは支給品の、ベコベコに凹んだ水筒が一つだけでしたよ。骨の欠片すら戻りません。兄は、ラバウルで、消滅してしまったんです。」
おばあさまは深く息を付かれた。
「遺体の端でも見せ付けられれば、私の親も諦めが付いたのでしょうね。でも、あんな水筒一つでお前の息子は死んだのだと言われても、諦めの付く筈はありません。
実際、…終戦を迎えて、死んだ筈の人が帰ってくる例も少なくありませんでした。当時はそれくらい混乱していたんです。私の親が、いつまでも諦められなかったからといって、非難するには当たりません。
兄は妙に潔癖な人でしたから、お嫁さんになる筈だったお嬢さんは、傷一つありませんでした。
でも、主となるべき兄が帰ってこないのに、そのお嬢さんだけを我が家に縛り付けるわけに行きません。親は、多額の謝礼金を払って、その方とのご縁をなかった事にしました。
でもね、当時は、一夜だけの結婚で帰らない息子のために、お嫁さんを家に縛り付けてしまう例も少なくなかったんですのよ。その点だけでも、私は両親を誇りに思います。
そうして私は、国見家の当主になる事を定められてしまいました。」
「私は跡取りとしての心構えもないまま、悪戯に年齢を重ねていきました。
本来なら幼少時に叩き込まれなければいけなかった国見家当主としての作法も、いよいよ兄が帰ってこないとなって初めて言い渡される始末。
それまで私は、この家を出ていく筈の者だったのです。新しい家を得て、その家風に染まって生きていく筈のもの…、それがいきなり国見家を背負わされたのですから、戸惑うばかりでした。」
「国見家当主たる私に、最初に与えられた仕事は、結婚でした。」
おばあさまは言葉を切られた。頑なに野乃香との結婚を拒む私を、試すような目でじっと見ておられる。
「大きな戦争でどこも痛めつけられてしまったので、国見家の財力は大きな魅力だったのでしょう。縁談が引きも切らずにきました。その中で両親が選んだのが、おじいさまのご実家…古来より舞を能くするお家柄の、草薙家でした。
私はといえば、投げやりな気分を隠せませんでした。女の子なら、誰でも持っている夢…、好きな人のお嫁さんになる事、これは最たるものですわね。それを根底から覆されてしまったんですから。
あなたのおじいさまは当時32歳。18歳の私に娶わせるには少しばかり年が行っていました。それでも、親が決める婚姻なんてこんなものに違いないと、私は諦めの気分でいたのです。
でも、初めてお会いした時は、思わず胸が躍りました。おじいさまはそれはそれは美しい男性でしたもの。天音さん、今のあなたより、きっとあの方の方がもっとずっと素敵でしたことよ。」
おばあさまは私の顔を見ながらにっこりと微笑まれた。
なにか追いつめられたように話されていたおばあさまにようやく血の気が戻ってこられたようで、私もつられて薄く微笑んでいた。
「でも、あの方は、最後まで私を望んでは下さらなかったの。」
笑顔のまま、おばあさまは切り付けるようにおっしゃった。
「あの方にはもう心に決めた方がいらして、私の入り込む余地などなかったの。私たちにとって結婚は、お互いの利益にかなう手段だったのです。
私は跡取りを。あの方は踊りの流派を守っていけるだけの財力を、それぞれ手に入れたのだわ。だからそれだけでも、私たちの結婚は成功だったんですよ。」
「そんな! それで、おばあさまはよろしかったんですか? それを私にもしろとおっしゃるんですか?」
私は思わず叫んでいた。血を閉ざさないためだけに省みられない結婚は、酷く理不尽に思えた。
「…あの方の心に決められた方は、同じ流派の女形の方だったの。初めてお目にかかった時は、息を飲む思いでしたわ。それはもう、夢のように綺麗なお方。到底私などでは敵わないと納得できるほどでしたわ。
あの方の舞台が退けた後にお会いしたのだけれども、舞台の後の薄化粧でも本当の女性のように華奢で儚くて、こんな人が本当に居るものだと、私は舌を巻く思いでした。その方はね、ただ頭を下げられるだけなの。私に向かって申し訳ないようなお顔をなさって、深々とね。
後から出てきた小娘が、妻ぶった顔をしているのだから、さぞかしお腹立ちでしょうにと思いますのに、恨み事の一つもおっしゃらなくて、私はつい、あの方にその無言の訳を聞いてしまいました。そうしたらね。
…その人は、何もおっしゃらないのではなくて、何もおっしゃれないのだそうなの。
声変わりをした時に、ご自分で、水銀で喉を焼いておしまいになったのですって。
姿形は女に見せる事が出来ても、声だけは飾れない。それを悟った時、まだ年端も行かない子供だった彼女は、後の半生、声を捨てる決心をなさったの。そうして命を懸けても、女形としてあの方のお側に居る道を選ばれたのよ。私はそれを伺った時、到底敵わないと知りました。私にはそれだけ情熱を傾けてあの方をお慕いする想いはないと。
ですから私は、形の上の妻。心の妻はあの方で、それでよかったんです。彼女の代わりに私があの方の子供を産んで差し上げるのは、とても素敵な事に思えたの。私があのお二人のために出来る事をして差し上げるのだって。
小娘の感傷とお思いかしら? でも私は本気でそう思ったし、今もその考えは変わりませんのよ。
兄にしろ、あの方にしろ…男の方の、思いこんだら一途な気持ちは私には真似のできない尊い物でしたもの。
間もなく巌さんが生まれて、私も忙しくなりましたし、あの方も彼女も、巌さんの事を、それは喜んで可愛がって下さいましたのよ。」
異常な関係だ。私は肌が粟立つのを感じた。
なによりも、それでおばあさまが幸せだった筈がない。
そして、私は野乃香を、そんな日陰者に納めてしまうつもりもない。
「おばあさま…っ、おばあさまは野乃香にもそんな忍従をしろとおっしゃるのですか?
それに、そんな生活で、おばあさまは…っ。」
幸せだったのですか、と、
どうしても問えない。
「ええ、私はとても幸せでしたよ。」
何事もなかったようにおばあさまは答えられる。
「私はあの方も彼女も大好きでしたから、お二人が幸せそうに寄り添っておられるのを、私が守って差し上げられるのは、この上ない喜びでした。
その上、私には可愛い巌さんが居ましたから、何も淋しい事はありませんでした。
天音さん、愛情というのは、何も睦み会うだけがすべてではないのですよ。」
そんな事を言われても、私には全然分からない。
自ら日陰者になり、それが幸せだったと言い切るおばあさま。誰だって、明るい日の下で笑っていられるのが一番良いに違いない。
「私には…わかりません…。」
「天音さん、野乃香ちゃんがどうしてこのお話をお受けになったか、もうお聞きになりました?」
私が力なく首を振ると、おばあさまはふうわりと微笑まれた。
「私の結婚は人助けのつもりもありましたけれど、野乃香ちゃんのお話を伺えば、きっと私の気持もお分かりになってよ。」
ああ、とおばあさまはため息を吐かれた。
「せっかく持ってきたお膳が、長話をしている間にすっかりさめてしまいましたわね。」
「いいえ…、せっかくですから、これを頂きます…。」
「……そう。」
一人になって考えたい私の気持を察して下さったのだろうか。おばあさまは立ちあがられると、静かに立ち去られた。
私は目の前の膳を睨み付けながら、なにかとても情けない気持になっていた。
慎吾の声が聞きたかった。