| 2004年 8月 11日(水) |
慎 吾
結局箸をつけられなかった膳を脇に退けると、私は鳴らない携帯を睨み付けた。
慎吾には、1週間は連絡を取るなといいつけてある。
私が一方的にしたものでも、約束を破ると後々まで引きずる事をよく知っている慎吾は、決して自分から連絡してこないだろう。
慎吾と知り合ってこの10年で、そう仕込んでしまったのは私だし、今まではそれに満足していた。私は慎吾の従順さに甘えていたのだ。
だけど、今日ばかりはどうしても慎吾の声が聞きたかった。
震える指が操作をしかけて、それでも尚躊躇う。
どうしようもなく意地っ張りの私は、この期に及んでまだ、自分から慎吾に頭を下げる事が出来ないのだ。
大体、この携帯は電源すら切ってしまってあるのだ。
慎吾からの連絡がこないのに、他の誰とも話をしたくなかったから。
胃がキリキリ痛んで、私はついに諦めた。慎吾の声を聞かないと、胃から全部駄目になってしまいそうに思えた。
それでも、電源ボタンを押す指は、往生際悪く震えている。
電源が入って、画面が変わった途端、手の中の小さな機械がぶるりと震えた。バイブレーターが作動したのだ。
私は慌てて表示を確かめた。慎吾からだ!
「慎吾…!」
慌てて取ったから、声が震えてしまった。電話の向うの慎吾は少し甘ったれたような声を出していた。
「天音…、ごめんな。電話もあかん言われたの、わかっとるけど、どうしても声が聞きとうなってん。」
「………慎吾…。」
「ん? どうしたんや、天音、泣いとるん?」
どうして慎吾にはすぐばれてしまうのだろう。私が思わず唇を噛むと、慎吾は慌てた声を出した。
「ちょお待っとき。すぐ行くし。天音、一人で泣いとったらあかんで。」
「あ…。」
待って、と声を掛ける間もなく、ぶつりと通話が途切れた。
私は思わず携帯を抱きしめた。慎吾に会いたい気持はあるものの、頭の中の整理が追いつかなかった。今の私の窮状を、慎吾に全部話してしまってもいいのだろうか?
もし優しい慎吾が、私を慮って、身を引くなどと言い出したら、私はどうしていいか分からない。
しかし私の戸惑いはすぐに断ち切られた。思いがけないほど早く、慎吾の来訪が告げられたのだ。どうやら慎吾は、うちのすぐ近くにまで来ていて、そこから電話を掛けていたらしい。
先日の仏間での私の告白は、別に人払いをしたわけではなかったから、家中に速やかに広まってしまったのだろう。呼びに来てくれたお弟子さんは、なんともいえない複雑な顔をしていた。
私は慎吾を自分の部屋まで呼んでもらった。慌てた足取りでやってきた慎吾は、私の顔を見るなり息を飲んだ。
「どうしたんや、天音。真っ青やで。なんでこないに…。」
言いかけて、傍らに退けた膳を見つけたようだ。擦り寄るように座ると、私の頭を抱きかかえてくれた。
「具合でも悪うしとったんか? 寮で無理させてしもうたんかいな?」
「そうじゃありません…、ごめんなさい、心配掛けて…。」
「具合悪いんでないならなんやの? 天音らしゅうない。心配事、俺にも分けてくれへんのか?」
広い胸に抱きすくめられて、あやすように頭を撫でてもらうと、ずっとしくしく痛んでいた胃が軽くなるのが分かった。
私は心を決めた。慎吾にはすべて分かってもらおう。
慎吾も当事者の一人であるし、何よりも私が甘えられるのは、今となっては慎吾だけなのだ。
話している途中から、涙が滲んできた。
鼻を啜りながら話を終えると、慎吾は急に怖い顔つきになった。
「おじさん、今いたはるんか?」
力なく肯くと、手首を掴まれた。
「ご挨拶にいこ。天音一人にそんな思いさせて悪かった。俺にも半分責任のあるこっちゃ。」
腕を軽く引かれるただけなのに、まるで縋るように腰が浮く。
私は、怒ったように進む慎吾の背中を慌てて追いかけた。いつもなら腹の立つ慎吾の強引さが、今日はとても頼もしかった。
公演が近いというのに、珍しく父は演舞場に居なかった。私は少し躊躇いながら両親の部屋に声を掛けた。襖が内側から開かれると、そこにはおばあさまもいらした。思いがけなく、家族全員の前に慎吾を引き回す事になってしまい、私は少なからず狼狽した。
だが、慎吾は実に堂々としたものだった。
上座に座った父の正面の席を勧められた慎吾は、さりげなく私の1歩前に出た。まるでその広い背中で、私を庇ってくれているようだった。
いきなり座布団を外した慎吾は、した事のない正座をした。そのまま床が鳴るような勢いで両手を付く。
「久しぶりです、おじさん。いきなりこんなご挨拶になってもうて、えらいすんまへん。
天音…との事を、ご報告しに上がりました。」
少し躊躇いながらも、いつもしているように私を呼び捨てる。まるで、私の所有権は自分にあると言い切っているようだ。
「お許しを頂こうとは思いません。どんなお叱りを受けても構いません。ただ、俺は天音さえいつも機嫌ようしてられさえすれば幸福ですのや。もし、俺らの事をお怒りになるのでしたら、どうぞその罰は、俺一人に当てて下さい。俺が天音をたぶらかしましたんや。」
「それは…違いますっ、私たちは…。」
「黙っとき、天音。」
思わず口を出しかけた私を少し振り向いて、慎吾は強い言葉で遮る。
「いつかはこんな日ィが来ると思うてたんや。お前は俺とは違う。俺みたいにいざとなったら回りのもん何もかも捨てられるほど、背負ってるもんが軽うない。だからもし、負い目を負わなきゃならんとしたら、それは俺だけや。」
「そんな…。」
私は思わず絶句した。一体、いつも明るくてお馬鹿な事ばかりしている慎吾のどこに、こんなに私を深く想ってくれる部分があったのだろうか。
慎吾は勢いよく額を畳に擦り付けた。土下座など、した事がないのに違いない、一瞬、慎吾の大きな背中がぐらりと揺れた。
「どうぞ天音を責めないでやって下さい。俺達はいつでも本気でした。それが間違うてたとは思ってません。俺…馬鹿やからうまく言えへんねんけど、とにかく天音が幸せでいてくれな、嫌なんや。天音が幸せでいられるように、あんじょう考えてやって下さい。」
「………もし、天音の幸せのために、君とは別れるように言ったら、君はどうするのかい?」
父は静かな声を出した。慎吾は背中を一瞬揺らし、それからゆっくりと顔を上げた。
「それが本当に天音のためなら仕方ありまへん。俺は身を引きます。俺一人が我慢するのは、どうにでもなることです。」
「そんな…嫌です!」
私は思わず慎吾の背中にかじりついていた。抱き着いてみると、どっしり構えているばかりだと思った慎吾の背中には、一面に冷たい汗が浮いているのだった。私は更に強く慎吾の背中にしがみ付き、叫ぶように言った。
「慎吾と別れるくらいなら、私も一緒に捨てて下さい。私は慎吾の傍がいい…っ。」
涙で詰まって、後の言葉が出てこない。
父はため息を吐いた。だが、さして落胆したのでもないような顔で、「胡蝶さんか…」と呟いた。
「まあ、顔を上げなさい、二人とも。何も我々は、君たちを弾劾しようと思っているのじゃない。私は、そういう事に付いては懐が深いつもりだよ。」
父は静かに腕を組んだ。懐かしいものを見るような目で私たちを見ている。
「私の父の恋人の事は聞いたね、天音。」
「………はい。」
「胡蝶さんといって、それは綺麗な人だったよ。うちの離れでひっそりと暮らしていたんだが、控えめな人で、いつも申し訳ないような顔をしていた。それでも父とは別れがたかったんだな。父が若死にすると、葬式の次の日にふいと居なくなってしまった。
見つかったのは3日後だ。変わり果てた姿で、川に浮いていたんだよ。父の後を追ったんだ。」
父は本当に淋しそうにため息を吐いた。
「男女の間の愛情には、子供という形で痕跡が残る。だから、どんな恋愛でも空しくないし、胸を張っていられる。でも、同性同士で芽生えた愛には痕跡は残しようがない。だから、胡蝶さんみたいに思いつめる人は、相手が儚くなると半身を削られたように感じて、後を追ってしまうんだな。
約束して欲しい。君たちが君たちの愛をまっとうした暁に、胡蝶さんの二の舞を演じる事は絶対にないと。」
私は思わず、弾かれたように顔を上げていた。父からはきっと、頭ごなしに反対されるものと思っていたのだ。
「そ、それは、…お許しを頂けるということですか…?」
慎吾もゆっくりと顔を上げる。父は、私と慎吾の顔を見比べて、またため息をついた。
「君たちが反対して納得するタマかね。それに、君たちのことは、昨日1日かけて、じっくりお母さんと百合子から聞いたよ。
君たちは、子供のころから、離れがたく一緒にいるそうじゃないか。そんな絆を外から断ち切れる物かね。」
「で、では…!」
「しかしまあ、一つだけ慎吾君にお願いしたい。」
「は、はい!」
慎吾は父に呼びかけられて、ぴょこんと背中を伸ばした。
さっきまであんなに堂々としていた態度が嘘のように見えるほど焦っている。きっと拳固の一つや二つは覚悟していたのに、拍子抜けしたのに違いない。
「君は私が跡取として大事に育ててきた一人息子を掻っ攫っていくんだ。それなりの心構えを聞かせてもらおう。
君は天音の為に、何をしてくれるんだい?」
「俺、俺は…。」
慎吾はごくんとつばを飲み込むと、もう一度座りなおした。まっすぐ父を見つめて深い呼吸をする。
「とりあえず、水泳で世界を取ります。」
「ほう…。」
父は感心したように、あごを撫でた。
「天音は俺が世界一のスイマーやないとやや言わはりました。だから、世界を取ります。俺、頭悪いし、ビンボーやし、でも、水泳だけは誰にも負ける気せえへんのです。
だから、俺が一番得意な水泳で、天音が誰にも自慢できる記録を作ります。イアン・ソープなんか目じゃないです。」
父は嬉しそうに微笑んだ。なんだか私まで嬉しくて、視界がにじむ。
…調子がいいぞ、慎吾。イアン・ソープは背泳じゃないか。
慎吾のバタフライとは比べられやしない。
「お話はお済み? それはそれとして、天音さんには野乃香ちゃんと結婚していただきますよ。」
「お母さん…、まだそんなことを…。」
突然おばあさまに割り込まれて、私は言葉を失った。おばあさまは余裕のある微笑を浮かべられて、穏やかに私と慎吾を見つめていらっしゃる。
「あなたには、国見家を継ぐ義務があるの。」
「いいじゃありませんか、いつかは終焉が来るんです。」
「だまらっしゃい。草薙流の流派を蹴った鬼っこが、国見家の存亡にまで口を挟むんじゃありません。」
おばあさまに一括されて、父はしゅんとしてしまう。
依然国見家の当主はおばあさまであり、誰も逆らえないのだ。
「それにね、野乃香ちゃんのお話を聞かないうちにこのお話を蹴ってしまうと、あなたはきっと一生後悔しますよ。」
厳しい声を和らげて、おばあさまはそうおっしゃった。